自由社VS学び舎 7.日露戦争(2)
なおロシアは義和団事件のあと兵を引かず満洲に居座り、日本の安全保障上の脅威になりました。
強大なロシアを相手に陸軍は、史上最大の会戦、奉天の会戦に勝利し、また海軍の連合艦隊は、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を全滅させました。
しかしこのときまだロシアには数個師団の精鋭部隊を含む兵力がいたと言われています。なぜこれらの部隊が満洲に送りこまれなかったのでしょうか。もし新たな兵力が送られてたいら、日本の勝利もどうなったか分りません。日本軍の弾薬は底をつきかけていたからです。ロシアが送れなかったのは、レーニンなど社会主義者の反政府勢力が破壊活動やテロ活動をしたため、ロシア国内が政情不安になり、治安維持のため送りたくても送れなかったのです。
このとき、レーニンなどの革命勢力に武器や金を与へ支援したのが、陸軍からロシアの後方を攪乱せよと命ぜられた明石元二郎大佐でした。ヨーロッパ諸国を舞台に、イギリスやアメリカの諜報機関顔負けの活躍をしたそうです。
スイスの砲兵工廠に眠っていた小銃1万6千丁、弾薬300万発や、別ルートでやはり8千500丁弾薬120万発をスイス無政府党員、高田商会ロンドン支店経由で購入、英仏海峡、デンマーク海峡経由、ロシアのヴィンダウに運び込みました。大佐は、レーニンを礼仁、民権社会党の領袖と表記しています。
戦争が終結すると明石大佐は、レーニンが引き留めたのにもかかわらず、工作を打ち切りすぐに帰国したそうです。このとき使った工作費は、当時のお金で73万円だったそうです。今のお金で20億でしょうか30億でしょうか。そして帰国後すべての領収書を提出したそうです。ちなみに東條英機元首相も総理大臣をお辞めになるとき、内閣機密費の領収書をすべて提出したそうです。当時の軍人にはこのような高い道徳性を持たれた方々がおられました。大佐は、後に第7代台湾総督になられました。この明石工作や陸軍中野学校など日本の諜報活動は、戦後教育からすべて外されています。これが日本人が国際情勢にに疎い理由の一つでしょうか?
続く
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