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兼業作家の時間術⑨「悪口」の使い方

(文責:伏見瞬)


今日も、社交術に関する話です。そろそろタイトル詐欺になってきました笑

「悪口」をどう捉えるか?

人間は「悪口を言いたい」「人をコケにしたい」「人の間違いを指摘したい」という欲望を多かれ少なかれ抱えています。
しかし、馬鹿にされたり間違いを指摘される人は、基本的には不快な思いを抱きます。深く心を痛める場合もあります。
悪口や罵声や中傷はやめた方がいい。でも、簡単にはやめられないのが人間です。

兼業を望む方というのは、今の職場の環境に満たされない方だと思います。それは収入かもしれないし、人間関係かもしれない。会社の風土が嫌なのかもしれないし、自分のやりたいことを押さえつけているのかもしれない。いずれにせよ、今の環境に違和感がなければ、わざわざ兼業しようとは思わない。

違和感を持っていれば、どうしても悪口につながっていきます。

以前に個人のnoteにも書いたのですが、自分の考えを鋭くすればするほど、人を批判しなくてはいけない場面も出てくる。しかし、鋭く研いだ批判は、たとえ論理的に筋の通った正論であっても、人を痛めつけてしまう。筋が通っているからこそ、余計に傷つける可能性もある。

結局、「悪口」や「批判」を口にするための必要条件は、ただ一つだと思います。

直接批判する時は

信頼関係を築くことです。
長い時間をかけて、信頼と呼べる間柄を持った上で、はじめて言葉のニュアンスや文脈が通じます。
人は、意見への批判と存在への批判を。なかなか分けて受け取ることができない。
存在を批判されて傷つかない人はいませんが、「あなたの存在を傷つけたいわけではない」というメッセージはなかなか意見や態度への批判とセットで伝わりません。

「意見は否定するが、存在は肯定する」。このセットを伝えるための事前準備が整っているか。そのことを考える必要があります。

もし、セットが整っていないと判断した場合は、批判を口にしない方が得策です。

逆に存在が肯定されていれば、悪口は結構上手く使えます。
映画『グラン・トリノ』で主人公役のクリント・イーストウッドがイタリア移民の床屋のおじさんと差別発言を連発する場面がありますが、あれは存在の肯定がすでに確認されている状況だからですね。
慎むべきとされる差別発言も、存在の肯定がお互いの間で成り立っていれば、ジョークとして機能することもあります。


悪口は「使える」

今までの話に対して「それは相手に対する直接的な批判じゃないか。ほとんどの場合、信頼できない相手、嫌悪感を覚える相手の悪口を言いたいんだよ」というツッコミが入りそうですね。

その通りです。私も書きながら自分にツッコミを入れていました。「嫌いな奴の悪口を言いたい」がほとんどですよね。

しかし、これに関しても大事なのは信頼関係です。

悪口をいう、中傷をする、批判をする当人がいない場面。つまり「陰口」をするのも、相手を選ぶ必要があります。

信頼関係のある話し相手であれば、「陰口」は円滑なコミュニケーションのための良いツールにもなります。
「あいつクソだよな」「いや、マジで終わってるよ」なんて話をするの、正直楽しいと私は思ってしまいます。

恋愛や友情に関してよく思うのは、「好きなものより嫌いなものが一緒の人間の方が相性がいい」ということです。
上手く言葉にできませんが、人は好きなものよりも、嫌いなもの、許し難いものに当人の価値観やバイブスが強く出ます。
だから、嫌いなものを話すというのは、人間がより親密になるためにも必要な過程ともいえます。

そして、信頼関係のない相手と「陰口」はしない方がいい。
「嫌な人だな」と思われかねないし、逆に「陰口」をされる可能性も高まる。「怖い人だな」と思われて、距離を取られることも出てきます。

どこを見ても「社会」

ここまで来て言えることは、特定の個人に対するソーシャルメディア(特にTwitter)での「悪口」「中傷」「批判」は極力控えた方がいいということです。
当人に対する引用ツイートなどもってのほかです。

なぜなら、ソーシャルメディアは不特定多数の人が見ているからです。信頼関係がないどころか、存在すら認識していない人がほとんどです。
あなたが誹謗中傷を誰かにしているのを知らない人が見たら、他人の気持ちを汲まない嫌な人だなと思われるのがオチです。

「何かがおかしい」と批判する場合は、社会や業界の構造に向けた方がいい。
この人の意見は間違っていると思う時でも、当人を攻撃的に批判しない方がいい。
よく知らない人から攻撃されて、意見をかえる人などいないからです。
生活していたり、ニュースを見ている中で、「おかしい」「あるまじき事態だ」「どうにかした方がいい」と思うことがどうしてもある。
その際も、特定の誰かを痛めつけては元も子もない。
自分にとっては正義感の発露だとしても、受け取る人にとっては害になってしまう。
ソーシャルメディアは、正義と害の不均衡を生みやすい構造になっているから、特に気をつける必要がでてきます。


間違っている、よくないことを言っている人に対しても、その人と信頼関係を築かない限り、批判は有効ではない。丁寧な言葉で説明するのも一つの手ですが、会ったことない相手だと上手く機能しない、というのが私の経験的な実感です。
ソーシャルメディアでの批判は、丁寧に説明しても「晒されている」感覚を生むから、説得は実際の会話以上に身を結ばない。
特定の人への攻撃的な批判を行うとき、あなたは意見が一緒の人からは賞賛されても、それ以外の人から遠ざけられます。

個人に対して批判していいのは、私たちの生活の良し悪し、というか生き死にを握っている政治家や大企業家に対してくらいじゃないでしょうか。ただ、政治家への批判や罵倒にも、具体的な戦略はあった方がよりよいとは思います。

ソーシャルメディアも、結局は人が運営/運用している「社会」です。会社の人間関係や友人関係と同じように、距離の遠い他人とは丁寧に接する方が良い結果を生むと思います。
「悪口」をいうなら、信頼できる間柄しか見られない鍵垢でこっそりやった方がいいですね。

ここまで書いて、私は今まで自分が書いたことをかなり破っているなと思いました笑。TwitterやDiscordで特定の人への悪口や批判を書いてきた。会社の、さして信頼関係のできていない同僚との間でも上司の陰口を言っていた。最近も、一週間前にもやっていました笑

というわけで、今回は私の反省を大いに込めた話でした。それほどまでに、人を悪くいう、人を罵倒することの欲望は強固です。
自分の欲望と向き合いつつ、良い社交を心がけたいものです。

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