「増殖する自己」の地獄
三つの地獄めぐり
「地獄」の一語に関わる作品・パフォーマンスを、2024年秋から2025年初頭にかけて三つ観た。
一つは黒沢清監督映画『Cloud』。もう一つは紅白歌合戦における星野源「ばらばら」のパフォーマンス。最後に、森美術館で1月19日まで開催されている『ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ』。以上の、それぞれに形式の異なる表現は「地獄」と関係を持った。『Cloud』は終幕間際の菅田将暉のセリフ「ここが地獄の入り口か…」によって、星野源は紅白歌合戦直前の「地獄でなぜ悪い」騒動によって、ルイーズ・ブルジョワ展はその展示名によって。
ここでは、それぞれ表現体験に迫ろうとする批評というより、今の私たちは「地獄」の一語から何を導くかの試論を提示したい。今ここにある「地獄」とは一体何なのか。
おそらくここでの「地獄」は、作家の「自己」をイメージさせる装置と化している。そこに、私たちがいま生きてる場所の困難さが感じ取れる。
地獄=「自己」
星野源の最近の宣材写真、車の運転席に座って前方のカメラを見つめる彼の笑っていない表情が、『Cloud』のラストシーンを想起させるという視点を複数の人が提示していた。車の中で「ここが地獄の入り口か…」と諦念を持っているかのように呟く菅田将暉を映すシークエンスと、無言で笑わずに目の前を見つめる星野源の写真には、確かに共振する部分がある。
ところで、『Cloud』が黒沢清の自伝的な作品と思えてならなかったのは私だけだろうか。菅田将暉演じる転売ヤーの立場や一途さは職業映画監督の行動原理を思わせるし、明確な理由もなく菅田を助け続ける青年(奥平大兼)は監督のためにあらゆるお膳立てをするプロデューサーにしか見えない。なにより、菅田将暉の髪型や服装が普段の黒沢監督に似ている。
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