L'Arc〜en〜Ciel論①『DUNE』と夢の現実性
(文責:伏見瞬)
以前のてけしゅん音楽情報などでも語っていたとおり、「L’Arc~en~Cielについての批評本」、「ラルク論」の依頼を編集者の方からいただいております。
しかし、時間がなかったり、うまくいくイメージが浮かばなかったりでずっと前に進めることができず、依頼を受けてから2年以上が経過してしまいました。
そろそろどうにかしなければいけない…というところで、ひらめきました!
連載にすればいいではないか、と。
連載なら書くリズムが作れるし、多くの人に読んでもらえる。私は多くの人に読んでもらうこと強い動機として作用するので、その力をバネにできる。というわけで、「てけしゅんのTwitterでは書けないこと」でラルク論連載していきます。章立てをどうするかも迷っているのですが、ひとまず、アルバムごとに一作目から書いていきます。あとで修正もできますし。
時系列で書いて、あとで並びかえて修正する、というのは『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』でもやった作業です。『スピッツ論』をどうやって書いたのかも、いずれこちらで発表していこうと思います。
では、まずはL’Arc~en~Cielの最初のアルバム、1993年の『DUNE』からいってみましょう!
1.L’Arc~en~Cielは(客観的には)描けない
一瞬、雷鳴が聞こえたかと思う。あるいは遠い地響きだったのかもしれない。とにかく外は何も見えず、景色と呼びうるような光の反映もない。暗闇の中で、静けさの隙間からなんらかの気配だけが泡立つ。人の気配ではない。無人の空間において空気は身を切る緊張の感触を孕みはじめ、木々や湖がすぐそこで息づいているかのようにかすかに、葉を震わす音や水の揺れる音が届く。しかしその音は外の世界で響いたものではなく、自らの内から聞こえてくるように思えて仕方ない。同時に、心臓の拍音がはるか遠い場所から聞こえる。遠近の入れ替わった空間を適切に把握できないまま、斜め右から光が現れたのを触知する。すると光は一挙に拡がって雪崩のように、木々のささやきも脈拍の反復も掻き消してしまう。面影は脆く崩れ、すべては光へと消える。包み込む光は太陽の光でも人工の光でもない。ひっくりかえった闇。白い闇としての光。暗闇は暗闇として残存したまま、光だけがある。白い闇に目が眩む。眩暈の中で、風が柔らかく流れ出たことに、かろうじて勘づく。他人はどこにもいない。同時に、私の輪郭も危うい。他者も自己も見失ったまま、揺らめきだけが続いている。
ヘッドフォンから、スピーカーから耳元へ突き抜ける音への集中を逸らし、瞳の機能が集めた視覚情報に目を向ける。すると、代わり映えのしない景色が持続している。散らかった部屋、あるいは珈琲屋の客席、あるいは朝のプラットフォームを無表情に歩く生物の群れ。そこにはわずかな揺らぎも見えない。音の群れによってもたらされたかに思えた白い闇も存在の眩暈も幻のごとく消え去り、噛みすぎたガムを思わせる味気なさが、感情のあるじとして支配する。なんという横暴。そんな絶対君主制度はすぐに打倒すべきである。そう思うことに実践的な効果は乏しく、もう揺らめきは戻らない。主体と客体が曖昧になることの戦慄と安堵も、もういない。味気なさにも、やがて慣れてゆく。
最初の段落に記したものは、L’Arc~en~Cielが演奏者として見なされる、著名なSF小説と同名の「砂丘」を意味する題名を付けられたアルバムを再生してからの数十秒に聴者である私が描く、イメージの描写である。楽曲リストに目を通すと、その1曲目には「Shutting from The Sky」の文字がみつかる。
もちろん、最初の記述を客観的として認めうる情報に還元することは不可能ではない。「雷鳴か地響きに思えた音」は複数のタムドラムの連弾であり、「身を切る緊張の感触」はベースのルート弾きと付点八分のディレイをかけられたギターのアンサンブルの効果だ。「遠くから聞こえる心臓の音」はキックドラムの反復に他ならず、「波のように雪崩のように拡がる光」はディストーションをかけられたギターが音量を少しずつ上げて鳴り響く時間の比喩である。すべては主観的な感覚のメタファーでしかない。そう判断されることを、本書は微塵とも否定しない。私が思うのは、客観性を担保した情報によって記されたL’Arc~en~Cielの音の記述が、他人と容易く共有されうる視覚情報のように味気ないということだけである。
目が受ける世界からの知らせは、たとえば「半分水の入ったコップ」のように、万人が受け入れられる記号として記述しうる。しかし、聴覚情報を客観的に記す手段はあまりに乏しい。「低いレと高いドをグランドピアノで同時に鳴らした音」と書いたところで、ほとんどの人間はイメージを作れない。視覚情報を感受することに不備のない身体を持った者だけが甘受できる(つまり目の見えない者には許されない)特権的かつ客観的な場に、録音物がもたらす体験を記述する余地はない。ましてや、私がL’Arc~en~Cielの作品から受けた感触を客観的と呼ばれる情報に移行できるとは、到底思えない。
本書は、「主観的」の誹りを受けると予想される描写をいささかとも恐れない。主観を、細密に描くことにしか宿らない力。どこまでも主観であることでしか届かない領域。その力と領域こそが、L’Arc~en~Cielを聴く時に開ける感覚だからだ。
2.夢に(が)閉じていく
L’Arc~en~Cielは、私にとってなにより「夢」を幻視させる音楽だった。ここでの「夢」とは、将来はサッカー選手になりたいとかお金持ちになりたいとかの、社会の中での願望の実現のことではない。どちらかというとそれは、睡眠時に発生する主観現象に近い。しかし、だからといってL’Arc~en~Cielの音楽が、眠っているときの夢の再現というわけでもない。夢そのものとは近いけれど異なる。異なるが故に、むしろ夢の本質に近づいている。そのように感じる聴取体験が、私にとってのL’Arc~en~Cielだった。
「夢」は、「現実」の対義語ではない。現実の反対にある逃避的行動ではない。もちろん、夢から覚めても夢について考えるのは、実社会に支障をきたす可能性が高い。しかしながら、夢の方が、社会で起きている事象よりもリアリスティックな感触に近い。夢は社会生活よりも「現実」だと感じる。そう思ったことを否定できない。「夢」でもあり同時に「現実」でもあるという感覚が、私がL’Arc~en~Cielから得たものだった。記憶に存在しない懐かしさのようなものだった。
1993年4月に発売された『DUNE』というアルバムは、最初からそうした「夢」の探索に聴く者を誘っている。自分の無意識を探る試みが、音楽を聴くと同時にあった。再生ボタンを押すとすぐに拡がるイメージの連続。一気に世界が広がるような感覚を与えるこの曲には、「空から閉じていく」というタイトルが与えられている。
一言で言えば「ドラマティック」と呼んで差し支えないイントロを持つ持ってこの曲は、他者のいない孤独な体験を描いたリリックを有している。L’Arc~en~Cielにとっての「ドラマ」とは、他者の存在を抜きに遂行されていく。
「誰」かわからない、なんらかの力に腕を引かれていくという体験に、一般的な意味での「他人」はでてこない。正体のわからない力を受ける体験を、このリリックは描いている。
「暗く沈み込んだ色が全て塗り替えられていく」と「影が光に消されて」という詞は、光が闇を消すイメージによって結ばれている。前のパートの「木々から指す木洩れ日」とも呼応している。ただ、そうした光は、なんらかの力によって、強制的にしか与えられない。為す術もなく、光を享受するしかない。主体的な行動をすべて奪われた感覚が、この曲で歌われるものにほかならない。
コーラスでは、「空が閉じていき、閉所恐怖症へと落ちていく」というリリックが英語で繰り返される。この曲のドラマチックな感覚は、外界からの圧倒的な力に晒されることと常に紐付いている。
3.ドラムの劇と不安定な歓び
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