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日本国憲法第二十五条

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2.国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

やっとそらで言うことのできる憲法がやってきた。それもそのはずで、この一日一憲法という謎のシリーズが始まったきっかけでもあるからだ。その会話の流れについては割愛するが、そのときはそれほど深くこの25条については考えていなかったと思う。

「生存権」。人間が人間らしく生存するための権利。
生きていくために必要なことは健康と文化的な生活だけではないと思うけれど、それが最低限の水準ということなのだろう。そして、その最低水準をクリアするために国が国民を守ってくれるというのが、社会福祉であり社会保障ということなのだろう。
毎日、働くことができる。食事をし、家賃を払い、健康に生活できている。テレビを観て笑ったり、本を読んだり美術館に行くなど趣味にお金と時間を費やすこともできる。たまに落ち込んだり、たまに体調を崩したり、冬になると身体中が痒くなったりするけれど、基本的には心身ともに健康に過ごしている。
今のところ、最低限度以上の生活を営むことができていると思う。




何度でも言うが、私はこの場でこのテーマを扱うことに大した目的はない。批判も擁護もしないし、強い思想も深い考察もない。だけど、昨日まで教育とか結婚とか住む場所とか、何でも自由にやっていいよという内容だったのに、急にハードルが下がったように感じる。
きっとこの生存権というのがすべての根底にあり、その上に自由が乗っているからではないかと思う。生きていなければ、当然自由を得ることもできない。

職場は新宿にある。新しく綺麗になった西口の改札を抜け、スタバ横のエスカレーターを上がり地上に出る。小田急百貨店の前、ガード下を抜けると右にも左にも毎日見かけるおじさんたちが地べたに寝転がっている。ジロジロ見ることも、あえて目を背けることもしない。ああ、今日もいるな、と思うだけだ。
健康なのか、文化的な生活ができているのか、私には分からない。だけど、ただ生きていることだけが「生存権」ではないはずで、それを行使しようとしている人に対して守る義務があるだけなのだろうな、とぼんやりと思ったりはする。




ベッドの上で、ただぼんやりと天井だけを見つめていた時期がある。そのときも仕事はあったし、生活費も貯金もあった。ただ、もう生きていなくてもいいなと思っていた。困ったもので、ガワが満たされている状態と精神が満たされている状態というのは必ずしも同居しない。
普通の家庭に生まれて、好きなことを学んで、自分で選んだ会社に入った。辞めたのも自らの意志だけど、その先の道も自分で見つけることができた。
そんな私だから、きっとこれからも「ただ生きている状態」で生きていくことはできない。確かにあのときは腑抜けだったけれど、所謂生活に困窮していたわけではなかった。

生きる意志、生きたいという願望は自身の内面からしか生み出すことはできない。どれだけ満たされていても、端から見て満たされているように見えても、やっぱり生存欲がなければ明日を見ることはできないと思う。それは、生存権云々の話ではない。

自ら命を絶つ人が後を絶たない。本当に、一歩踏み出すか留まるかだけの僅かな差だ。昨日も通勤中に人身事故が起き、しばらく電車内に閉じ込められてしまった。
知らない誰かが線路に飛び降りる度、有名人の衝撃的なニュースを見る度、ああ、あっちへ行ってしまったんだな、どれだけ辛くてどれだけしんどい毎日だったのだろう。そんな風に思って胸が苦しくなる。

だけど、あのときより辛いことなんてもうないから。もう、死ぬほど苦しい思いをしなくていいから。何も心配せずどうか安らかに。お疲れ様だったねと強く思う。悲しいより、寂しいより、ほっとしてしまう。
誰も、何も言っちゃだめだ。行くところまで行ってしまったら、家族すら、親しい友人すら、自分以外の「生」を引き出すことなんてできない。むしろ、枷になってしまうことすらある。

生存権は生きるため、生きたい人のためにある。生きなきゃだめ、ではなく生きていいよ、ということではないだろうか。
大きな声では言えない。だけど、それが自らの選択なら踏み出したっていいと思う。いざとなったら、と思いながら生きていた時期もあったし、今も確かにそれが心の支えになっている。




後半から有料記事にしようかとも考えたが、ここまで続けてきて今日思ったこと、考えたことがこれだったから仕方ない。死生観についてはやや偏っている部分があるため、話半分でお願いしたい。

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