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日本国憲法第二十一条

集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

新宿駅前にはいつだって人が集まっているが、特に西口のロータリーに選挙カーが停まっていて、その上で演説が行われているときは特に人が凄い。いつもほぼ小走りで駅に向かい、バタバタと帰宅することもありそこに足を止めたことはないが、本当にみんなちゃんと聞いているのだろうか。

こんなにインターネットが発達した時代でも、簡単に人と連絡がとれるようになっても、その時期になれば駅前でマイクを持って大きな声で話し、ビラを配っている。外を走る選挙カーから聞こえる演説の声で休日の睡眠を妨げられることもしばしば。何年経っても変わらないな、と思う。
若者の投票率を上げるには何か根本から変えなければいけないような気もしないでもないが、特にそこまでの意欲も情熱もないのでどちらでもいいっちゃいい。




以前、書くことの面白さを知ったのは中学時代だと書いたことがある(『書く。そしてまた今日も。』より)。幼い頃から本ばかり読んできたおかげで小学生の頃から読書感想文などの作文を書くことは全く苦ではなかったが、中学1年のときに担任だった先生の影響で「書く」ということの習慣がついた。
先生は国語が担当で、ほとんど毎日のようにクラス全員に文章を書かせた。ホームルームのときにA4のわら半紙を四等分にしたものを生徒たちに配布し、黒板にテーマを書く。「今日の合唱の練習どうだった?」や、「来週からのテストに向けての悩み」など、題材は様々。

50代のやや頭髪の薄い普通のおじさん先生。体育祭だろうがシャツにスラックスで現れる、一見ぼんやりとしたちょっとやる気のない先生風にも見えるが、生徒への向き合い方は今まで出会ってきたどの先生より信頼のおける人だった。
文章を書かせたのもコミュニケーションツールの一つで、いつも紙を配りながら「一言でも、一行でもいいよ」「書くことなかったら別の話でもいいよ」と言ってくれていたため、生徒から文句が出ることはなかった。5分ほどで紙を回収すると、何も言わずそのまま生徒を帰す。しかし、翌日配られる学級通信には数人の文章が選ばれ掲載されている。それが、とても嬉しいのだ。

上手い文章を選んでいる訳でも、良いことを書いている人を選んでいる訳でもない。恐らく先生は、クラスの一人一人に存在意義を与えていた。
「〇〇さんが合唱の練習のときにアドバイスをくれた」だとか、「〇〇くんといつも掃除をしない棚の上を拭いた」という、日常の風景を切り取った一文。だけど、それが誰かが私を見てくれているということ、先生が全員をきちんと認識してくれていることを知るきっかけとなった。大きな声で生徒たちの士気を上げたり、熱血指導をすることはない。だけど、そんなことしなくても先生と生徒の間にはきちんと信頼関係が生まれていた。

学級通信は一年間でちょうど100通になった。それを全てファイリングし、今でも実家に残している。もう何年も見返していないが、久し振りに見てみたい気もする。




そういえば先生の作る定期テストはとても難しいと昔から評判だったそうで、「先生のテストで8割取れれば高校受験は余裕」とまで言われていた。そして「先生のクラスの生徒になると文章力が伸びる」とも。
国語しか得意教科のなかった私も、確かに中学1年のときは定期テストの度にちょっと苦戦していた。先生は私たちの学級担任を終えると同時に異動になり、その後2年間は別の先生のテストを受けてきたが、正直ほとんど勉強しなくても余裕で9割取れていた。先生の難しいテストと毎日のわら半紙のおかげだろう。

今ここでnoteを書き続けているのもその延長のようなものかも知れない。PCやスマホに変わってしまったけれど、書くことの喜びや楽しさは13歳の頃から変わっていない。人生は断片的なようで、意外と繋がっている。

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