見出し画像

日本国憲法第二十条

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

緊急事態宣言発令中だった約半年前、在宅勤務とオンライン授業で家にこもりきりで時間があり余っており、ちょっとした執筆の仕事をしていた。1つの記事で500円~1000円ほど。大変でもなかったが自分が書きたくもないテーマで思ってもいないことを書かなければいけないのはそれなりに苦痛で、時間よりも気持ちの面で挫折し辞めた。そのタイミングで授業もやや忙しくなったため、ちょうどよかったとも思う。
特に金銭的に困って始めた訳でもなかったため、支払い等についてはあまり気にしていなかったのだが、そういえば未払いだなと気付いたのがつい数日前。その旨をクライアントに伝えると、やっとこさ請求書のフォーマットが送られてきた。別に払ってくれればいつでも良いし、労力を忘れた頃に入ってくるお金というのは臨時ボーナス的でちょっと嬉しい。

一応お金になる文章を書いていたけれど、一円にもならないこの場所で書く文章は全く苦痛ではないし、それどころが心の拠り所にしている。つまらない執筆生活の中で気付いたことは、私の欲は「書きたい」ではなく「書きたいことを書きたい」ということだ。
今日も、そんな感じで。



無宗教である。でも、「信仰を持たない」と強く決めている訳でもない。宗教以外に信じているものも信じている人も存在するし、当然何かを強く信じている人のことも否定しない。
私の「信じる」ということの考え方は、盲目的に好きになるとか、この人の言うことは絶対だと思うとか、なくなったら死んでしまうとか、そういった類のものではなく、「安心して戻って来られる場所」というのが近い。テレビもそう。本も、漫画も、友人も、家族も、お酒も。趣味と何が違うのかと問われるとはっきりと答えられないが、まあ要するにその程度なのだろう。

それでも、今は落ち着いているが体調の悪い時期は上記のどれにも頼ることができなかった。眩しくてテレビを付けられない。読める本も限られる。友人や家族にも連絡するのを躊躇う。
そんなときでも、摂取できたのはラジオだけで、排出できたのはnoteだけだった。

静かな部屋で音量を極限まで下げ、イヤホンから聞こえてくるいつもの声は、訳も分からず泣いてばかりだった14歳の私を、学校に行くのが嫌で電車に乗るのを躊躇っていた17歳の私を、毎朝通勤中に死んだような顔でハンドルを握っていた23歳の私を、ずっと支えてくれていた声だった。2周り以上歳が離れた、親の年齢ほどの彼の声を、ずっとずっと聞き続けてきた。
ラジオに出会っていなかったら、彼に出会っていなかったら、もしかするとどこかのタイミングで最悪の選択をしてしまっていたかも知れない。

14歳でラジオを聞き始めて、14年経った。ラジオを聞いていない期間の方がもうすぐ短くなる。きっとこれからも、私の耳には誰かの話し声が聞こえる。私に話しかけている訳ではない。だけど、私だけに話している。そんな風に思える。




高校生のとき、前日に録音したラジオを持って家を出た。すぐにイヤホンを付け、校門をくぐるその直前まで装着していた。帰り道も、学校を一歩出た瞬間にラジオを再生。冗談ではなく、ラジオがなければ恐らく私は学校に行っていない。
クラスに友達は一人もいなかったけれど、3年間、一日も休まずに登校した。このパワーを宗教と言わずになんと例えたら良いのか。いやはや。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?