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日本国憲法第四十二条

国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。

どんどん忘れられていく。だからきっと、いついなくなっても大した違いはないのだろう。この世からいなくなってしまった人を、毎日思い出すことのないように人の身体はできている。

毎年、毎日、誰かがこの世を去っていく。どんな時代も「絶対」はないけれど、必ず訪れる終わりの瞬間についてだけは絶対に揺らぐことはない。曖昧であやふやな日々を生きる中で、何か一つでも変わらないことがあるというのは支えになる。
例え、それが死だとしても。

不謹慎かも知れないけれど、私は死を前向きに捉えている。当たり前に訪れる普遍的なものを、良いとか悪いとかそんな風に表現するのは野暮のような気もするけれど、“その時”が来たと思うしかない気がするのだ。
自死を選ぶ人も、それはやっぱりその人なりの終わりの迎え方なのだと思う。その背景にはきっと悲しくて辛い出来事や耐えがたい苦しみがあるのだろうが、死そのものには悲しみも苦しみもなく、ただそこに終わりという事実があるだけだと思ってしまう。
残された人、という言い方があるが、単に並ぶ順番が後ろだっただけで決して取り残されている訳ではない。大丈夫、いつかあなたにもその時が来るから、というのは慰めになるのだろうか。




人生の両翼は生と死でできている。どちらも同等に価値があり、どちらも誰に干渉されることはない。衆議院と参議院は常に議席数を奪い合っているけれど、生と死は常に隣り合わせで自分の人生と共に歩んでいる。
別に何があった訳ではない。感傷的になっている訳でもない。今年亡くなった彼女の記事を見て、ああそうか、もう彼女はいないのかと心にひゅっと吹き抜けた風の正体を考えただけだ。

あっちへ行ってしまった人のことを、気まぐれに思い出すのは罪だろうか。私がこの世を去ったあと、たまにでも思い出してくれる人がいたとしたらそれは結構幸せなことかも知れない。

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