見出し画像

日本国憲法第三十九条

何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。

一人暮らしで体調を崩すと死ぬ。これは本当。
昨夜急な腹痛に襲われ、風呂上がりに全裸でキッチンマットの上に倒れた。這うようにして薬の入った箱まで辿り着き、痛みが治るまでびしょ濡れの身体でしばらくじっとしていた。
腹痛で死ぬのか、寒さで死ぬのか、はたまた全裸のままキッチンで倒れているところを見ず知らずの人に発見され社会的に死ぬのか。ぼんやりと自身の最期が脳裏に浮かんだが、今日も仕事へ行き帰り道の電車でこれを書いているということはどうやら無事生還したらしい。


2週間ほど前、会社で昼休みに歯を磨いていたら急に祖母から電話がかかってきた。身内からの突然の電話は心臓に悪い。だけど我が家の最年長は言わずもがなこの電話の主で、まあ本人からなら最悪のことはないだろうと通話ボタン押した。

「元気?会いたいよ」
「毎日楽しい?」

そんな他愛もない会話。うん、会いたいね、うん、楽しくやってるよ、と可能な限りの明るい声を出して返事をした。
ホームに入っている祖母とはコロナの影響で今面会ができず、当然年末年始一緒に過ごすこともできない。

母親の実家にそのまま住んでいたため、祖母とは生まれた時から毎日顔を合わせていた。
社会人になり、家を出てから実家には年に数回しか帰らず、わざわざ会いに来てくれる母と姉とは頻繁に顔を合わせていたが祖母とは盆正月くらいしか会えなくなった。生きているうちにあと何回会えるんだろうと考えると、胸が苦しくなるため考えること自体を辞めた。


何が大切で、何に時間を割くべきで、何を優先すべきか。いつか会えなくなることは分かっている。だけど、目の前の日常を最優先し、言い訳をしながら家族のことを疎かにしてしまっている。
コロナの影響で面会ができない状況に、どこか安心している。“会えない”ことの大義名分ができ、自分への負荷を減らしている。

来年には母も還暦になる。翌年には父も。祖母は一体何歳なんだっけ。
どうせ後悔するに決まっているのだ。離れて暮らしていることを、会えるのに会いに行かなかったことを、理解しながら疎かにしていることを。
誰も否定はしない。私の人生の時間を、私がどう使うかは自由だと。みんながそう言うから、そんな気がしているけれど実際は重罪に値することだと分かっている。誰も裁いてくれないから、私も都合良くいい気になっている。


洗濯が終わった音がした。
やらなければいけないことはいつだって明確なのだ。洗濯機の蓋を開けることすら億劫なのに、気持ちも体力も振り絞って祖母の元へ行くのはやはり大仕事なのだ。
会いたくない訳じゃない。だけど、「今会わなきゃ」と思いながら、「会えなくなる日も近い」と思いながら、その事実に向かい合うのが怖くて、目を背けている。ただいまと祖母の家の玄関を開けていた小学生の頃のように、いつまでも変わらず迎え入れてくれた祖母でいて欲しい。

私は今日も罪を背負って、言い訳をしながら家族の安寧を願っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?