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日本国憲法第二十三条

学問の自由は、これを保障する。

今までで一番シンプルかも知れない。学問とは、学ぶとは。少し考える間に、全く関係のない今日のことを。


土日の出勤は基本的に苦ではない。それどころか、少しウキウキすらしている。平日のように授業を受けるために急いで帰る必要がないことや、ペアで仕事をする人とのやりとりがスムーズなことなどが要因だ。
別に土日以外の出勤日に文句がある訳ではない。仕事内容も社内の雰囲気も、概ね満足していて偉そうにこれ以上求めることなどない。

いつもなら楽しい日曜日のはずが、今日は少ししんどかった。失敗している訳ではないけれど、仕事のクオリティがイマイチで、端的に言うとちょっとグズグズしていた。
失敗や間違いを、異様に恐れている。信じられない暴言を浴びていたあの頃を思い出してしまうから。無能で役立たずでどうしようもなかった自分を思い出してしまうから。
仕事においてトライアンドエラーなのはもう仕方がない。だけど、「どうしたらいいか分からない状況から抜け出せない」のは結構辛い。

帰り際、いつも挨拶だけして帰るところを、「明日休みですよね?」と社員さんに話しかけた。「◯◯さん居ない日しんどいです」と、自分でもびっくりするくらいスッと弱音が出た。申し訳ないと思った。
俺が居ない日でもいつでも連絡してきていいから、と言われ首と手首がもぎれそうなくらいブンブン横に振った。いやいや、そんなことしません、すみません、と。気を遣わせてしまったようで一瞬後悔したが、それでも「メシとか行こう」と明るく対応してもらえて助かった。

明日はちょっと憂鬱だな、と思いながら帰宅する今。



学校の勉強も、習い事も、もちろん就職してからも、学ぶことばかりだ。勉強なんて嫌いなのに、すっかり大人になった今でも学校に通って勉強をしている。
「勉強できる風」「頭良い風」に見られることもしばしば。だけど学生時代の成績は中の中、良くても中の上くらいだった。大学は少し特殊だけど、高校も偏差値的には高くないし、何だかいつも「普通くらい」の位置に付けている。教科によっては下の下のものだってあった。
要するに、「風」「ぽい」を見せることだけは長けていた。だから、勉強はできなくても先生に好かれるタイプ。今思うとちょっと嫌な感じだ。
以前、国語が得意だったなんて書いたけれど、それも現国だけで古典はてんでダメ。できることが少なすぎて呆れる。




自分には子どもがいないけれど、もし「なぜ勉強しなければいけないのか」と例の永遠の問いをいざ問われたら、私は何と答えるのだろう。勉強が嫌いで、苦手で、避けてきた私がどう学問の重要性と楽しさを伝えたら良いのだろう。そもそも、伝えるべきなのだろうか。

可能性が広がることは間違いない。やりたいことをやれるようになるために大切なのも。
だけど、目の前にある楽しいことより自分のこの先の人生のことを考えてしまう子どもって何だかちょっと、と思ってしまう。もちろん大切なことだけれど、目の前の楽しいことを優先するのも同じくらい大切だと思うし、そうあって欲しいとも思う。
「目の前の楽しいこと」が「勉強」であるべきなのだろうけれど、それを教えることができる気がしない。

もしかすると、これは私が勉強をサボってきたツケなのだろうか。勉強から逃げると、勉強の楽しさや大切さを教えられない親になる。これが結論なのでは?
となると、もはや私になす術はない。ごめんよ、未来の私の子ども。
ああ、やっぱり今日はダメな日だ。

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