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日本国憲法第三十一条

何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

このところ昼食の時間が遅く、夜になってもお腹が空かない。
今日も8時に出勤して昼休みは14時半から。大体は12時からか13時からで休憩を回しているが、私は午前中の仕事が他の派遣社員と異なり、その休憩回しから外れているため独立して好きなタイミングで休憩に入る。できれば休憩前にあらかた仕事を終わらせてしまいたいという気持ちがあり、気付いたら13時からの休憩の人が帰ってきていて、14時過ぎにいい加減行くか、と席を立つのがルーティーンになってしまっている。

ご飯に卵焼き、昨日焼いたカレイの余り、ミニトマトと質素な弁当。それにデザートのみかんを加えてもまるで大したことのない弁当であることに変わりはないが、それでも残りの勤務時間を乗り切るためには充分な量と内容で、自分なりには満足している。




こんな質素で素朴な日々を過ごしている私に、犯罪や刑罰といった物騒な言葉は現実味がない。実際は毎日ニュースでそういった報道を見るけれど、やっぱり「テレビの中のこと」と思ってしまいどうしても自分に降りかかることなんて想像できない。

それでも1992年生まれの私にとって「佐世保小6女児同級生殺害事件」はこれまでの人生の中でも最も衝撃的な事件の一つだ。被害者・加害者の少女と同じ歳で、恐らく同年代でこの時間を記憶していない人はいないのではないかと思うほどだ。
それが起因してか、「酒鬼薔薇事件」の犯人の母親の手記を読んだり、少年犯罪を取り扱った小説をたまたま読んで深く考察してしまったりと、知らず知らずのうちに関心を寄せているように思う。




事件から何年も経ち、当然彼も彼女も私も「少年」や「少女」と呼べる歳ではなくなった。すっかり大人になった彼らは、10代だったあの頃を振り返ってどんな風に感じ、また今どんな風に生きているのだろう。
決して当事者ではない私が想像するには限界があるけれど、きっと一生背負い続けなければいけない過去と闘ったり苦しんだりしているのではないだろうか。当然と言えば当然だし、遺族や事件に関わってしまった人たちの心情を考えると言葉にならないが、何だろうな、どこかで心穏やかに生きてほしいとも思ってしまう。

不意に放った一言が、誰かを傷付けてしまうことは誰しも当然ある。私自身も今でも覚えている過去がある。たまにそれを思い出して苛まれたり発狂しそうにもなるけれど、毎日反省して過ごしている訳ではない。
明日も明後日も、生きていかなくてはならないから。

恐らく彼らは一生、死ぬまで懺悔しながら生きていくことだろう。だけど、そのためには自身の生を全うしなければならない。刑罰を決めるのは法律であり、自ら自分自身を傷付けたり刑を課すことは許されないと思う。遺族の懲罰感情を蔑ろにすることに等しいと思うからだ。
苦しみながら生きていけ、と言っている訳ではない。ただ、生きていく上で辛いことも大変なこともたくさんある。それを、きちんと経験して欲しい。


サイレンの音が聞こえるとドキッとするのは、聴覚過敏のせいだけではない。今も私の手の届く距離で、何かが起きている。そのことに恐怖を感じる。見えない何かに共感して苦しくなる。

今日も無事一日が終わる。そろそろお腹も空いてきた。

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