見てこそぞ、夢 「矢印論」

「幸せとは、2つの矢印である」
これが私の幸福論であり、「矢印論」と呼んでいる。

この考え方は、たしか2016年の末に考えたものだ。

幸せな状態とは、
「長い矢印と短い矢印を持っている状態」
である。
それはつまり、
「長期的な目標やゴールがありそれに向かっている状態=長い矢印がある」
でかつ
「今日や明日の自分の短期の欲求を満たせる状態=短い矢印がある」
であること、
という考え方である。


幸せになるとはどういうことか?
という問いは私の中にずっとある問いだった。

学生時代、私の中で定説となっていたのは、
「幸せだなあと思える状態が幸せ」
という考えだった。

これはつまり、
「どんな境遇であっても、その人自身が幸せと感じたら幸せである」
ということ。
例えば、「頑張って働いて帰った後、ビールを飲んで幸せならそれは幸せ」
という考え方である。

長年定着していたこの考え方が変わったのは、社会人になってからだ。
大人になるにつれて、いろんな考え方に触れると発想の転換がうまくなる。
また、簡単に快楽を得られるものがあることも知る。(お酒とかね)
ポジティブに解釈したり、一瞬の快楽を買い取ることで、上記の
「幸せだと考えること」
は意外と簡単にできることに気づいた。

そのことに気づいて、
「自分を無理に納得させたり、お金で買った快楽に固着することが幸せなのか?」
と自問するようになった。

社会が謳う幸せというものがある。家庭、地位、名誉・・・などなど。
それにしっかりとついていけない人は比較により嫉妬や不足感を感じ、不幸せになる。
しかし、どの状態にあっても上には上がいる。現状の状態だけ考えると、人間は常に不足を感じてしまうものだ。だから、これまでの考え方だと、一時的には幸せでも、ふと自分と周りを比べたときに、不幸に感じるときがあるのではないかと気づいた。

これでは幸せになれない。何かが足りない。

私は走るのが好きだ。走る時の気持ち良さは、
「いま体を動かしているという高揚感」
と、
「確実に進んでいるという前進する感覚」
にあると思っている。
この要素を幸せの定義に取り入れた。もともと滞ることがキライな私は、
「進んでいる状態=どこかに矢印が向いている状態」
を正しい状態と考えるようになった。
これが矢印論のはじまりである。

何かに向かっている状態が素晴らしいという考え方。
これは、「夢」というものが大好きな人たちの持つ考え方である。
「どんなに苦しくても、たくさん努力をして夢を叶えなさい」
「何かに向かって頑張ることや、結果としてそれを実現することは素晴らしいことだ」

しかし、私はこの考え方に100パーセント賛成できない。
実際、繁栄が約束されていな私たちの世代の興味は、数十年後ではなく、今日や明日や、今週末にあったりする。将来の夢があるだけで幸せに生きていける時代ではないように思う。

私は考える。
たしかに「長い矢印」も重要だが、同時に注目しないといけないのは、今この瞬間に持っている「短い矢印」なのではないかと。
つまり、
「食べたい時に食べる」
「寝たいとき寝る」
「会いたい人に会う」
みたいな、比較的短期で叶えられる願いをしっかりと叶え続ける必要がある。
これは、長い矢印の達成より簡単に見えて、実はそんなことはない。
短い矢印をつなげていくためには、
「自分自身が健康で、安全・安心な環境にいる」
ことが必要だからだ。

つまり、
「未来のために激務をこなす」
というのは(それが当人にとって苦痛であるならば)、この定義では幸せではない。これは短い矢印が不足している。
そして同時に、
「毎日意味もなく働いて酒を飲むこと」
も、長い矢印がないので幸せではない、と考える。

長期的な目標と、短期的な生活の充足感。
どっちかではなく、どっちも。
どっちもあって初めて、幸せになれるのだ。これが矢印論である。

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