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効率という檻の中で

僕たちは、日々「効率的に生きること」を求められています。仕事では短時間で成果を上げることが正義とされ、SNSなどにも色々なビジネスの時短術や効率化を謳う宣伝も少なくありません。

それがなんだか、日常生活でも「時短」や「無駄の排除」が当たり前のように推奨されているように見えてきます。スマートフォンひとつであらゆる用事が片付き、便利なテクノロジーのおかげで、何をするにも「より早く」「より合理的に」処理できるようになりました。

そんな僕も、電車移動中、AndroidとiPadを使って音楽を聴きながら書いています。確かに便利です。無駄な時間を省けば、その分自分のために使える時間が増えるはずです。仕事を早く終え、浮いた時間で趣味を楽しんだり、家族や友人と過ごしたりする。そう考えれば、効率を求めることは生活を豊かにするように思えます。

でも、本当にそうでしょうか。効率を求めれば求めるほど、どこか息苦しくなっている気がします。すべての行動に「目的」や「生産性」を求められ、時間の使い方にすら厳しく管理される。

そのせいで「何もしない時間」や「目的のない寄り道」が無駄なものとして切り捨てられてしまう。本来なら心を休めるはずの時間さえ、「もっと生産的なことに使うべき」というプレッシャーを感じてしまいます。

そうして、僕たちは「ただ生きているだけ」の時間すら、意味がないものだと思い込むようになってしまったのかもしれません。

合理化の中で失われるもの

社会学者のヴェーバーは、近代社会が進むにつれて人々は「鉄の檻」に閉じ込められると指摘しました。社会が効率化されるほど、僕たちは「合理性」という枠組みの中に押し込められ、自由を失ってしまうというのです。

たとえば仕事において「いかに短時間で成果を出せるか」が最優先され、人間関係ですら「有益なつながり」や「効率的な交流」が求められるようになりました。

SNSを見ても、「生産性のない雑談は無駄」「メリットのない人間関係は切るべき」といった考え方が当たり前のように語られています。

時間は有限です。必要のない人間関係に縛られるよりも、自分にとって価値のある人とだけ関わるほうが、合理的かもしれません。

でも本当にそれだけでいいのでしょうか。意味のない会話、たまたま居合わせた人との何気ないやりとり、ただ一緒にいるだけの時間。そうした「効率とは無縁のもの」が、思いがけず心を満たしてくれることもあるのではないでしょうか。

ヴェーバーが危惧したように、社会が合理性を突き詰めていくほどに、人間の感情や生きる意味は後回しにされてしまいます。

すべてが「時間対効果」や「生産性」で測られ、人間関係も仕事もそして人生そのものまでもが、効率の名のもとに単なる「手段」にされてしまいその結果、僕たちは何を得て、何を失っているのでしょうか。

「何のために効率を求めるのか」を問い直す

哲学者ハイデガーは、近代社会では人間が「技術的思考」に支配されていると言いました。つまり、あらゆるものを「どれだけ役に立つか」という基準でしか見なくなってしまうというのです。

木を見れば「木材」、川を見れば「水力エネルギーの源」としてしか認識しない。そして、この考え方が進み、現代では人間関係や人生そのものも、「どれだけ効率的か」「どれだけ役に立つか」で評価されるようになっているように見えます。

この視点に慣れきってしまうと、時間のかかる人間関係や、利益にならない趣味、目的のない散歩、こうしたものがどんどん切り捨てられてしまいます。皆さんは、それで生きた心地がしますか?

非合理の中にある価値

アリストテレスは、人間の幸福とは「目的の達成」ではなく、「人生そのものの充実」にあると考えました。幸福は「何かを達成すること」ではなく、「どう生きるか」の中にあるということです。

合理性ばかりを追い求めると、僕たちは「寄り道」を許容できなくなってしまいます。しかし、人生において本当に価値のあるものは、そうした「非合理」な出来事の中にあることも多いのではないでしょうか。

ふと立ち寄ったカフェでの偶然の出会いが、新しい価値観をもたらしてくれることがあります。予定になかった遠回りが、思いがけない発見につながることもあります。

僕たちは「効率的に生きること」を求めているのではなく、「充実した人生を送ること」を求めているのではないでしょうか。

確かに、合理性や効率化は僕たちの生活をスムーズにしてくれます。しかしその先にあるものが、ただの「便利さ」だけなら、それは本当に僕たちが望んでいた未来なのでしょうか。

何のために生きるのか

効率や合理性を追い求めることは、現代社会において避けて通れません。でも、それを突き詰めた先に、本当に僕たちが求めているものがあるのかを考え直すことは必要だと思います。

ヴェーバーの言う「鉄の檻」に閉じ込められたまま、ハイデガーの言う「技術的思考」に支配されてしまっていいのでしょうか。合理的に生きることが、いつの間にか生きる目的になってはいないでしょうか。

アリストテレスが説いたように、人生の幸福とは「いかに生きるか」にあります。もしそうなら、効率化だけを重視することは、本来の目的を見失うことにつながりかねません。合理性の先に何があるのか、それを問い直すことで、僕たちは「生きる意味」をもう一度見つめ直すことができると思います。

便利で、合理的で、最適化された社会。それだけが本当に僕たちに幸せをもたらすとは限りません。だからこそ、僕たちはときどき立ち止まり、「何のために生きるのか」という問いを、もう一度考えてみるべきなのではないでしょうか。

もしかしたら僕たちの本質は、紀元前から何も変わってないのかもしれませんね。

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