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【わたしの好き嫌い 歌論篇】class「夏の日の1993」を丸裸にします!

五.すきなうた

 歌っているのはclassというデュオ。曲名に1993とあるのでおそらく1993年(平成5年かな)発表の曲だと推定される。

 1993年は、小生は高校3年生で、まだ首里に住んでいた。たぶん。まだという言い方は、今は住んでいないのか、と思われるかもしれないが、今も首里に住んでいる。途中、住んでいない時期が、十数年ほどあったというわけであるがそんな話は今はどうでもよい。

 この歌は、なぞがおおい。
 サビがよくわからない。深淵である。

1993恋をした、おお、君に夢中
普通のおんなと思っていたけど、LOVE
ひとちがい、おお、そうじゃないよ
いきなり、恋して、しまったよ
夏の日のきみに

class「夏の日の1993」

 この意味、分かるだろうか?
 小生はわからない。

「普通のおんなと思っていたけど」→「おお、そうじゃないよ」なら分かる。文構造は、二重否定みたいになり、普通の女と思ってた、けど、違う、ということで、「普通の女」じゃないから、とくべつで、すきになった、のなら分かる。

 だが、問題は、「ひとちがい」という名詞なのか形容詞なのか不明だが、こういうことばが間に挟まるので、ややこしい。

「普通のおんなと思っていたけど」→「人違い」→「おお、そうじゃないよ」となるので、構造的には、三重否定になってしまう。逆の逆、そのまた逆、ということになる。ん? そのまた、逆なのか?

 そうなると、結局南極、目のまえにいる女は「普通の女」ということになる。

 作者は、結局南極、「普通の女」がいいのだ、と言いたいのか、あるいは恋は盲目なので、何だかもうよくわからないよ、と言いたいのか、そこらへんは、ある種の詩情にはなっている。

 個人的には、こういう態度はあまりすきではない。煮え切らない。え、どっち? はっきりしてよ!と思ふ。小生はできるだけ、何事もはっきりしてほしいと思うタイプである。

 しかし、わからないというのも、作品には大切で、一から十まで分かったようなきもちでつくられた作品は、あっけない感じがする。あっそ(阿蘇)、と受容せられて、消化されて、捨てられてしまう。

 だから、この、深刻な謎については、支持する。
 であるからこそ、いまは、2024年かな、三十年以上経過しても、いまだにこの楽曲は聴かれるのである。

 以上、「夏の日の1993」のなぞについて。

 次、この歌は、下ネタがおおい。

 抜粋する。

まるで別人のプロポーション
その素肌そのセクシー
服の上からははかれない(わからない)ね
ああ、色っぽいチャーミング
宝の山だよすべてが
君に夢中(←中出し)
こんなに一緒にいたのに(←何回もやってる)

class「夏の日の1993」(抜粋)

 などなど。

 おそらく別にもあるが、おもなところは上記である。

 この歌をお書きになったのは、デュオのどちらかわからないが、けっこう、助平な人だと思ふ。

 そもそもこの歌の舞台は、都会の中にあるプールっぽい。プールなのでズーミギ(水着)姿である、おんなが。

 おそらくだが、作者は、三十余年前の、スクール水着(ズーミギ)などもお好きなのではないか、と思うのである。

 きらいな歌
 今はとくに、思いつきません。いや、あるけど、また別の機会に。

本稿つづく

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