【原爆】長崎の思い出
1995年か1996年。たぶん1995年。
そのころ私は異常に旅をしていたので、その年の夏も、南アルプスを二十日ばかり縦走して、下山して帰って、ちょっとしてまた旅に出た。長崎に行った。長崎の思い出は異様に沢山ある。
長崎の駅前でステーション・ビバーク(野宿)をしていた。学生旅行の東京から来たという男と知り合いになったというか、何かの話をしていた。中学3年の時の国語の先生が長崎の大学で勉強をしていて、長崎市というのは変な場所だと言っていた。切支丹、原爆などなど。こういう歴史の霊たちがうようよしているとか。
そういうことを思い出していると、初老の男性に声を掛けられた。私たちは、泊めてやるというその男性の家に行った。部屋に案内された。広い壁一面にヴィデオ・テープがずらりと並んでいる。映画が好きらしい。酒を飲もうということで、乾杯した。旅をする学生が好きなのだと初老の男性は言っていた。君たちはロマンティックなんだと。
変な酒で、いつの間にか気を失うように寝ていて、目が覚めると朝だった。東京から来た学生は、この家にもう一泊するという。中背で、がつしりした体つき、短髪の青年だった。
私は平和公園に行き、平和祈念像を見物した。喫茶店に行った。凄く居心地の良い喫茶店だった。CDウォークマンでビル・エバンスの「Waltz For Debby」のヴィレッジ・ヴァンガードのライブバージョンを聴いた。この時のことは一生忘れないと思う。今でも覚えているし。
夜は居酒屋に行った。この時が初めて一人で居酒屋に入ったのではなかったろうか。一人でどのように振る舞ったらいいのか、まだわからなかった。
映画館に行き「オールナイトってやってますか?」と聞くと、受付女の人が「週末しかやってないんですよ。ごめんなさいね」と丁寧に教えてくれた。その日はどこで寝泊まりしたのか覚えていない。
翌日島に行った。長崎というのは有人の島がたくさんある。商店でアンパンとか、飲みものを買った。なんだか島の人たちにじろじろ見られていた。観光客が来るような島ではなさそうだった。島の名まえは忘れた。
本土に帰ろうとしたら、その日のフェリーはもう無かった。明日まで無い。仕方ないのでポート・ビバーク(野宿)をすることにした。夜おそく、島の顔役みたいなおじさんが来て「おい、おまえ、日本人か?」と凄まれた。「あ、はい」とこたえた。事情を説明すると、顔役は優しくなって民宿に案内してくれた。民宿の人も親切だった。風呂に入った。その頃、東南アジアらへんからボートに乗って日本に勝手に上陸するという事件?が相次いでいた。私はその東南アジアらへんの人と間違えられていたらしい。ビールも飲ませてくれて、顔役の人は帰っていった。というかそんな所に泊まる金を持っていたのかどうか、覚えてない。無かったと思うのだが。
そんなこんなで、帰った。長崎出身の友人に話をすると、長崎市の初老の男性(自宅に泊めてくれた人)は、地元では有名な人で薬局を営んでおり、同性愛者ということだった。旅烏の学生を家によく泊めるそうだ。「あんた、やられたんじゃないの」と言われたが、やられたのかどうか記憶が無い。たぶんやられてないとは思う。あの、東京から来たという学生は、多分やられた、もしくはやったんだろうなと思った。世の中には色々な人がいるのである。
細かい話をすると、もっといろいろあるのだが、長崎の話は。切りがないのでおわる。
おわり
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