【随筆】一夫多妻制と女好きについて
一夫多妻制というのは原理的に無理がある。無理、だと私は考える。
一般的な収入の男には、まず無理。金持ちでも、相当金持ちでないといけない。殿様レヴェルな。
後宮、大奥というのがあり、これはおんなたちをケア・サポートしてくれる場所である。男は別に、何もしなくともよい。すきな女をフィーリングで選び、いちゃいちゃしたり、舐めたり、すったりもんだりして、そして中出しすればよい。ふう。よかったわい。なんじ、締まるのう。とか。おぬし、そのわざだれに仕込まれた。蜜壺御前でございます。ほう、ふふ。あやつ、元気かのう。はい、殿にまたお会いしたいと、おっしゃっておりました。ふむ、明日、よばれようかの。みたいな。
しかし、それですべてよいかというと、そうでもないだろう。似たようなおんなが限定的な場所にあつまるので、とうぜん諍いはたえない。陰口、いじめ、陰惨悲惨。必然的に魑魅魍魎が跋扈し、地縛霊、怨霊、生霊などが増える。病人、死人も出る。狂人も。無惨やな。
女好きという人たちがいる。というか男はほとんどみんな女好きだろう。私も好きだ。
誰でも、ほとんど好きなのだが、これを選んで、付き合う(突き合う)ようになる。よくある現象である。そして別れる。別れないばやい(場合)もある。内縁の妻・夫みたいな場合(ばやい)もあるし、紙を行政に提出し、結婚する場合もある(さいきんは晩婚化が進んでおり、それにともなってか、少子化らしい)。
私は結婚した。交合して、子どももできた(こどもというのはいざ作ろうとしても、結構中々できない。すぐできる場合もあるらしい)。こうなると、家族みたいになる。
女は、人間である。
男と同じ類・種に属しているが、人間として、全然違う人間である。何を考えているのか、よくわからない。
人間というのは、個々なので、常に利害が衝突している。目のまえにたこ焼きなどがあると、奪い合う。
結局南極、女は人間なのであり、AIでも人形でもない。H・チャールズ・ブコウスキーの短篇に、人間そっくりのダッチワイフが出てくる。うごくし、しゃべる。従順。月経もない。いつも機嫌がよい。うふーん、て感じ。「理想の女だ」とブコウスキーは言う。そうかね?
女は人間なので、これと付き合うのは大変である。何しろ人間で、他人なので何を考えているのか、何がいやなのか、何が苦痛なのか、全然わからない。口論ばかりが起こる。ときにはフィジカル・ファイトに及ぶこともある。大変。難儀ばかり。ざりうん(うんざりの意)。
もちろんいいこともある。うっふーん、みたいな。しかし、大変・難儀・ざりうん(うんざりの意)の方が比較的に大井競馬場。とくに若いときはそうだ(った)。
女好きで(誰でもそうであるが)、実際に複数の女と関係を持つ者もいる。私には、想像もつかない。女、一人でも持て余すのに、というか自分……私は自分自身ですら持て余している。自分が何なのか、マジでわからん。全然、自分を救えないままでいる。ムナシ過ぎる、日々。自分で自分がわからん。みなさん、わかりますか? わかっているのかしら。
このような状態・状況において、一体どうやって複数の女とヤるのだろうか。方法があれば教えてほしい。いや、別にいいや。
推測だが、複数の女と付き合え(突き合え)る人は、おそらく、女を人間として見ていないのではないか。AIとか人形、あるいは物として見ているのではないか。
そして自分自身のことも、分かっているつもりでいて、それを、そのままにしているのではないか。それでいいのか? 知ってるつもり?
そう思う。
思うというか、論理上そうなる。
そうなるのだが、どうだろう。間違っているかな。