見出し画像

【重要】ないというものは、ない

 どうも、猿もゼロを認識しているらしいということが最近分かったらしい。ゼロを発見したのはインド人(と聞いた)。インド人的にいうと、ゼロはあるらしい。

 私はゼロというものを認めていない。従って形容詞の「無い」も認識していないし、みとめない。猿にも劣るにんげん、なのかもしれない。

 「無い」というのはあくまで概念であり、物理的には存在しない。私は基本的に物理的に存在しないもの、目に見えないものは信じないし、頼りにもしない。

「記憶」というものは目に見えない感じがするが、脳内の何らかの電気的信号として、脳内に貯蔵されている。なので物理的にはあるし、見ようと思えば見ることはできる、はず。だから私は「記憶」を信じるし、これを頼りにする。

 霊的存在は「記憶」に由来している。なので私は霊的存在は一見目には見えないようだがその立つ場所は物理的にあるので、これを信じるし頼りにする。

 概念というは便利なものなので、「無い」という概念は手段として設定するといろいろわかりやすい感じにはなる。たとえば牛丼屋で「うなぎがなくなりました」などと店員が客に言っている。

 牛丼屋なのに何故うなぎを売っているのか、またこの客というのもなんで牛丼屋に来てうなぎを注文するのか。私には意味不明なことばかりが世の中には起こるのであるが。

 兎も角「うなぎがなくなりました」と店員が言っている。うなぎが絶滅したという意味ではない。うなぎを捕まえて殺し、これを食用に加工した、そのストックがなくなったというわけである。

 しかしこれは「無い」わけではなく、牛丼チェーンのどこかの倉庫とかから運ばれればふたたび「ある」し、倉庫になくなればまたうなぎを捕まえてころして加工すればいいのである。そうすれば「ある」のである。

 この世には「無い」ということはない。「無い」というのは概念、または一時的な状態のことである。「無い」というのは絶対にない。絶対に純粋に無ければ、そもそも私たちはそれを認識することができない。

 この世には「ある」ものしかない。「ある」ものは物理的に存在している。たとえ目には見えなくとも、物理的現象として必ず「ある」。

 絶滅してしまったものもあるが、絶滅したということを私たちが認識するのは記憶や、記録や、歴史によって認識するのである。誰にも知られず絶滅してしまったものは、そもそも、「無い」し認識されない。

「無い」ものやことについて考えても、どうにもしようがない。しょうが(生姜)ない。無いものねだりも、完全に時間の無駄である。

「ある」ことについて考えること。「ある」ものは無数にある。

 人生は短い。いらんことをしている時間はない。

 みなさんがそれぞれの「ある」ものについて考えを深め、それを大切にすることを心から願っている。

いいなと思ったら応援しよう!