【連載小説 中篇予定】愛が生まれた日㉗帝王切開、切り方は三枚肉の一枚目ぐらい、肩の力を抜いて…ポーランド正教とプロテスタント
「フェラ……」
「どうした」
「ううん……。いえ。でも」
「どうしたんだよハニー。言ってくれ」
小声で、うるさい。クリトリスとフェラチオがうるさい。あーもう。窓外にはパトランプの赤い光がくるくる。サイレンがあいかわらず鳴り響いている。あーもう、イライラする。
「わたし、こないの生理が」
「ワッツ? え、どれぐらい」
「フォー・マンス」
「え? そうなのか。病院には行ったのかい」
「いいえ。でも、たぶん、おそらく。メイ・ビー」
「ああ、クリス。マイ・ハート。ベイビー」抱きしめようとする。
「うん……」うつむく。
「どうした。うれしくないのかい」
「あなたは、うれしいの?」
「うれしーさ(シーサー)。どうしたんだよ」
「だって私たちまだ結婚もしてないし、それでにポーラ(ポルチオ・グッドマン、フェラチオ・グッドマンの母。多分、おれの推測)にもまだ話してないし」
「なに言ってるんだよ。大喜びするさ。だって、俺たちもう34(サーティ・フォー)だよ。いつ結婚するんだって、毎日のように言われてるんだから」
「ええ。ポーラはいい人だわ。大好きよ。女手ひとりで、あなたをこんなに立派に育てあげて」
「どうしたんだ、クリス。なにか不安があるのかい」
「あります。私、仕事を辞めたくないの」
「なにを言っているんだよ。辞めなくていいよ。そりゃ、すこしは休むことになるかもしれないけど。君は優秀だし。俺よりもずっと」
「そうよ。でもこのギョーカイで、休むということがどういう意味をもつのか、あなたになら分かるでしょう」
「え。えっと」
「私は負けたくない。誰にも。ルイス、カール、ジャネット、マイケル、フィンセント、テオドール、ミラン、ポーレチケ、プーチン、フョードル、アーネスト、ミシェル、アントン。ああ畜生(ガッデム)、いろいろな顔が浮かぶわ」
「クリス、おちついて」
あー。もううるせー。
「フェラ、私、堕ろそうとおもうの」
「とんでもない。だめだ。だめだめ。というか君は福音派だろう?」
「いいえ。それは、エレーナ(エレーナ・アンドレーエヴナ・セレブリャコーヴァ。クリトリス・ブラックの母。たぶん、おれの推測)がお父さん(ペニス・ブラック。クリトリス・ブラックの父。たぶん、おれの推測)と別れる前のことよ。前も言ったでしょう。今はポーランド正教よ」
「そうか。でも、」
「ごめんなさい。静かにしてくれませんか。こっちは。全然集中できない」とおれ。
「ソーリー」とグッドマン。
「由希子、どうすればいいのかわからないよ(日本語)」
「え?(日本語)」
「どこをどうやって切ればいいの?(日本語)」
「ここよ(日本語)」と言って由希子はユキノシタのふくらんだ腹の、臍の少し上を真一文字になぞった。
「どれぐらい切ればいいの?(日本語)」
「JJ、三枚肉の、三枚の一枚目ぐらい。数センチよ(日本語)」
「うん。わかった(わかってない)。数センチて何センチ?(日本語)」
「いやいや、どちらにしても、堕ろすなんてできないだろう(小声)」
「できるわ。あなたの家はプロテスタントでしょう。結婚してから堕ろせばいいのよ(小声)」
「そんな。馬鹿な。そんな、そんなこと。そんな結婚なんて有り得ない。ハニー、そんなことは絶対にゆるされない(大声)」
うるせー。うるせーんだよ。どっか行けよ。
「肩の力を抜いて(日本語)」
と、突然。見ると、西村(病理医)だ。
「大丈夫、できる。切るだけだ。そっと。切るだけ(日本語)」
あー。あーもう。だったらおまえがやれよ。そもそも医師免許も持っていない人間が、人の身体に刃物を突き付けて、さらに切るなんて。そんなこと許されるのか。そんな話は聞いたことがない。これって絶対違法だろう。
「だいじょうぶ(日本語)」
おれは右手に持ったメス(刃物)の先、数センチをユキノシタの腹の肉に埋める。だいじょうぶ。数センチ。あとは切るだけ。そう、真一文字に。
血が、あふれる。
泉みたいに。
がちゃ。
また。また誰かが来た。
本稿つづく
◇参考文献
『ワーニャおじさん』(チェーホフ「岩波文庫」2005年2月4日第3刷)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?