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【連載小説】夏の恋☀️1991 シークレット・オブ・マイ・ライフ(終)

 また、アパートに行った。桃子に聞くとまだ引き渡しはしていないということだったから。ほとんど眠ってしまった桃子の肩を抱いて、エレベーターを降り、302号室に入る。

 電気は、まだつく。何か、このまえよりも荷物が増えているような感じがする。というか、普通に誰かが暮らしている部屋じゃん。一瞬まちがえたかと思って桃子に聞くが、「ここ。ここだよ、ここ」と桃子はめんどくさそうに言う。

 このまえ夜を明かした部屋に行くとマットレスが敷いている。寝具も人の抜け殻のようにしてある。朦朧とした桃子をマットレスに寝かせる。反吐の臭い。桃子のティーシャーツを脱がせる。さらしのようにして付けているブラジャーも両腕を上にして取る。きれいなかたちの桃子。小さいけど。

 物干しハンガーにかかっているタオルを水で濡らして、桃子の体を拭く。汗と、反吐を拭う。裏返しにして背も拭く。ぴちぴちのジーンズも苦労して脱がせる。真っ白な太ももの裏に三つ黒子がある。下着は汚れてなかったのでそのままにする。また返して、仰向けにした桃子にタオルケットをかける。暑い。リモコンがあったので、エアコンをつける。

 風呂場に行き、全部脱いで水シャワーを浴びる。桃子のシャツとブラも手洗いする。上がって、洗濯機でシャツとブラを脱水する。パンツと上着をきる。物干しハンガーにシャツとブラを干す。

 桃子の隣に寝て、タオルケットに潜り込み、近づく。あー、おわったと思った。厄介事は済んで、ひと段落。どことなくホッとした。もう、本当に桃子を見送り終わったんだと。横向きに右肘をついて、桃子の顔を見下ろす。桃子の肩を抱く。つめたいすべすべした肌。かわいい寝顔と寝息。なんとなく桃子が笑っているような感じがする。

 とじられた目の、奥二重を見て、このまま朝まで見ていようと思いながら、いつの間にか寝ていた。起きると、桃子はいなかった。

 マットレスの上に胡坐をかいて、桃子。いってらっしゃい。と思った。

 ととと、と。と足音がする。顔をあげると、隣のリビングの、その隣の廊下からおんなの子があらわれる。あ、桃子。

 おんなの子は四歳ぐらい。笑っている。首を右に、左にかしげながら、へんな歩き方でこっちに近づいてくる。

「桃子」

「ふふ、ふ。いしし、しし」女の子は左の人さし指を口にくわえている。のぞく八重歯がかわいい。紅いくちびるがよだれで濡れている。

「桃子、いかなくていいのか?」

「ふふふ」

 おんなの子は近づいてくる。おれが右手を差し出すと、その手を掴む。

「あのねえ。JJ」

「うん」

「あなたは、この先もずっと何もわからないままなの。わからないまま。そのまま死ぬよ。だってあなたは、普通の人なんだから」

「うん」

「あなたは普通の人として、ふつうに、普通の出来事のなかで生きなさい。おおくはのぞまないで。JJ、あなたにお祭りは似合わないわ。まいにちの、平凡な日常を生きていくのよ」

「うん」

「そう。そしてその中で、日々おこること、おこったことを書いてほしいの。できるだけ全部。いい、見たままを書くのよ」

「うん」

「たいせつなことよ。ちゃんと聞いてね」

 おんなの子はくわえていた指をおれの額にくっつけた。

「ここ。頭の中のでかんがえたことは絶対に書いちゃだめ。あなたの目で見たもの。それをそのままに書くの。それは、とてもむずかしいことだわ。でも、だれかがやらないといけないの」

「うん」

 この子は、桃子じゃない。この子は。

「やくそくして、JJ。書くと約束して」

「うん」

「だいじょうぶ。あなたにならきっとできる。あなたは、バカだけど、真面目だから」

 にっこりと笑う。きれいだ。似ている。この子は、桃子の子だ。とと、ととと。とおんなの子が走り去ろうとする。「JJ、おねがい。あの子になまえをつけて」

「まって。ちょっとまって」おれは立ち上がり、おんなの子の片手を掴む。露骨にいやそうな顔をして、顰めて、きーっと金切声をあげる。こんどは桃子の声がする。おれの記憶の中で。昨日言われたこと。

「JJ、あなたはものたちになまえを付けることができる。あなたが考えて、あらたに付けるんじゃないの。そのものたちに、思い出させるの。もとの名を。本来の名を。自分で思い出させるの」

 おんなの子はしきりに逃げ出そうとする。腕と腕で、綱引きみたいになる。

「ナツ」とおんなの子が言う。

「そう。そうだ。夏。夏子、いや、夏。君の名は夏だ」

 おんなの子の力がゆるむ。手を引かれて、おれに抱かれる。腕の中で、思っていたよりも小さい。バレーボールぐらいの大きさ。白くて、毛むくじゃらになる。

 と。とおれの腕から飛び下りて、走ってクローゼットに消える。

 ああ。よかった。と思っておれは帰ることにした。廊下を歩いて、玄関でサンダルをはき、ドアを開ける。白い光。強い風と光。風の量がおおく、どこか潮のにおいがする。そういや台風が近づいているらしい。

 おれの足の間をすり抜けて、白猫が夏の中に走り出していった。

 そういえばこれは、二十世紀の話である。

おわり


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