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【読書記録】「7つの階級 英国階級調査報告」マイク・サヴィジ 舩山むつみ訳

帰省した際に寄った本屋で平積みされていたもので、高額だったため買わなかったが、非常に読み応えのあるものだった。2011年から実施された英国階級調査のデータを解析し、社会学の知見と合わせて研究したもの。本書の議論の根幹として以下のように述べている。

私たちは民主主義社会に生きていて、それぞれに平等の権利があるはずだと信じたい。しかし、同時に、経済的な機会が誰にも平等ではないこともよくわかっている。経済格差という現実と、平等な権利があるはずだという信条、このギャップが生み出す苦悩を解消するために人々が不満をぶつける対象、つまり階級は、避雷針のような役割を担っているのだ。

p. 6

かつての階級論争では職業を基本軸としていた。高度な職業の人は裕福で教養もあり出世や権力に結びつく人脈も強い、逆も然り、という具合にである。しかしその点にはこの調査によって疑問が投げかけられている。

本書の最も革新的な部分は、階級を定める指標として過去の議論で用いられてきた職業ではなく、経済資本・文化資本・社会関係資本という3つを採用したことにある。

中層階級の厚み

3つの資本という指標の提示よって、まず第一に今まで考えられてきた上流→中流→下流という一次元的な階級理解ではなく、より重層的な階級の様相を見出すことができた。3つの資本を全て持つトップ層でも、3つの資本のいずれにも乏しい底辺でもない、いわゆる中間層の人たちが、どれだけ重層的で幅広い階級を構成しているかがわかるというべきかもしれない。

ここではトップでも底辺でもない人を「中層」と呼ぶが、本の中では「中流」と「労働者」という言葉が用いられている。中流と労働者を分ける形の階級構造はイギリスのエリートの政治的な経緯が関わっている。

階級をめぐる歴史の中で、イギリス人は中流階級と労働者階級の境界を階級理解の核心に据えるようになった。他の多くの国々で、特に裕福ではないけれど困窮もしていない人々のことを中流と考えているのとは、事情が大きく異なる。イギリスでは中流階級は、文化的に上流階級にはへつらい、労働者階級には傲慢な態度で特権を振りかざす人々とみなされる可能性があるし、多くの場合、そう考えられているのである。

p. 35

つまり階級という概念に固執するのは、エリート(専門職や経営者)がそれ以外の人との差異を明確にするためと捉えることができる。実際、選挙権の拡大によって貴族による政治が危ぶまれたときに、エリートをジェトリーと呼んで自らの陣営に引き込むことで政治的な立ち位置を保とうとしたという事実がある。

この中層の人たちに共通して言えることとして、「自分は標準的な階級にある」ということを強調する。それはお世辞にも裕福とは言えないような生活をしている人から、収入が国民の上位10%に入るような人たちに至るまで当てはまる。

人々は自分の富を誇示することはないが、同様に、最下層にいるという恥と烙印を認めることもない。

p. 61

この態度の心理は後に言及するが、話はこれだけでは終わらない。中層の厚さを強調すれば、同時に上下両端の階級がいかにかけ離れたものであるか、影が立ってくる。上端については3つの各資本を個別に言及するときに同時に見てみたい。それよりも我々が直視しなければならないのは、底辺のクラスである。

トレイシー・シルドリックらの最近の研究が証明するのは、最も不安定な生活を送っている人々(つまり、貧しい労働者階級の人たち)が「低賃金の仕事を転々とし、長期にわたる不安定な雇用状況の末に、福祉手当を申請する」というサイクルである。ほとんどの人は「怠け者」でも「仕事嫌い」なわけでもなく、低賃金、質が悪い、不安定、短期またはゼロ時間契約 [イギリスで問題となっている、週あたりの労働時間が明記されていない形で結ばれる雇用契約。雇用主の要請がある場合のみ働き、労働時間に応じて報酬を受け取る] などの労働の、仕事と仕事の合間や、無職の期間が長く続く間のごく短期間、福祉手当を申請しているにすぎない。

新自由主義が支配するイギリスでは、短期低賃金の不安定な雇用が、フルタイムの正規雇用より急速に増加している。さらに深刻なのは、そのような雇用が、従来は給料の良い安定した雇用への足掛かりと考えられていた初歩的な仕事に限定されなくなったということだ。むしろこれは、経歴に傷をつけ正規雇用の道を塞ぐことが多いため、一旦非正規雇用で働いた人々は、「膠着状態」になり、そこから抜け出せないサイクルに陥る構造となっている。

pp. 323-

中層階級が多額であれ少額であれ固定給を安定的に手に入れることができるために、そして安定した収入を手に入れられない人へ侮蔑の目を向けて向き合おうとしないために、この本で「プレカリアート (precariat; precarious + proletariat)」と呼ばれる日々の暮らしに困窮する階級が、最底辺から脱出できないシステムを構造化してしまっている。

階級の継承

階級の指標に3つの資本を導入した結果として、上記のような中層階級の厚さの他に、階級は上の世代から受け継ぐものであるということを強調できるようになった。経済資本で考えるとわかりやすいが、資本は親から子へ、子から孫へと相続することが可能である。一生のうちに資本を増やすことはできるが、スタート地点は生まれながらにして変えることはできない。これが文化資本・社会関係資本にも成り立つと考えれば、階級が固定化されて当然だろう。

この本の中では、新自由主義・能力主義の台頭によって上層階級が上層階級であることの言い訳が用意されているという。

富裕なエリート階級は「排他的」ではないが、仲間入りするには必死で働き「実績を上げ」なければならない。アメリカのエリート教育を称賛するカーンが指摘しているように、このエリートたちは「達成」の思想に重きを置いている。しかし、出身家庭により、このエリート階級の一員になれる可能性は左右される。その意味で、特権という形を再現している事も明らかだ。

p. 295

上層階級は自らの階級位置をほぼ必ず「努力の成果」という形で表現する。しかし出身階級によって上層にまで上り詰める努力の量は大きく異なる。例えば日々の暮らしに困窮している親は子供に私立学校へ行かせる余裕などない。親の人脈が太くパーティーなどに子供を連れて紹介すれば自ずと社会関係資本は増えていく。当然上層の人間はそのことについて理解しているだろう。

しかし自分が上層階級の出身であることを認めてしまえば、それまでの努力を全て否定されたように感じてしまう。階級社会が法律で明文化されていない現代において、低層階級から上層へと上り詰めた人間がいる以上、低層の人間が自分より努力を怠ってきたと言っても間違いとも言い切れない。

私たちのインタビューのエリート階級の回答者全員に関する限り、彼らにとって、階級には、彼らは尊重している能力主義の概念、寛大さ、個性などを侵略する、道徳的な意味合いが高度に含まれている。「普通」であることによって彼らは、自主性や、自分の人生を自分の力で切り開いていることを強く主張しているのだ。そしてそれによって、固定的な階級制度の中で社会的に認定されている身分、という見方を払拭しようとしているのである。

p. 344

当然社会では能力がある人間とない人間ではある人間の方が優遇される。資本主義を敷いている以上、優秀な人は必ず優秀な人と繋がろうとする。

このように考えると、自然の成り行きに任せたところで階級の不当な断絶を是正することはないことが容易に想像できよう。政府をはじめとする公共機関に格差是正を訴えるのは、このような背景があってのことである。

3つの資本 各論

経済資本

経済資本が階級を図るバロメーターになることは言うまでもない。しかしこの「経済資本」という言葉の中に何が入っているかを今一度考える必要がある。

階級と結びつけて真っ先に思い浮かぶのは収入だろう。派手に金を使えば元の木阿弥と言われるとはいえ、そもそも派手に金を使えるというだけで低層階級からすれば無縁の世界である。当然、上層階級とされるエリートなどの職業では収入は多くなる。3つの資本を軸に考えている以上、上層階級ならば収入が多いという短絡的な思考はよろしくないが、経営者や医師、弁護士といったエリートの職業に多額の金が流れているのは誰もが認める事実ではないか。

しかし「資本」という言葉を使う以上、収入だけではなく資産も見るべきである。特にこの本の中で強調されているのが住宅資産だ。「金持ち父さん、貧乏父さん」の本が出て以来「持ち家は負債だ」ともてはやされているが、それは個人のマネープランにおいて想像以上に出費と制約が嵩むというだけの話である。会計的に考えれば住宅は資産以外の何者でもない。

そしてイギリス、特にロンドンでは数十年にわたる地価の高騰によって持ち家が莫大な価値を持つようになってしまった。イギリス全土の資産の合計が絶対的に増加しているのである。

なぜ「持ち家が莫大な価値を持つようになった」ではなく「なってしまった」と表すのか。理由の一部はこのように説明される。

こうした富の絶対的な増加は、社会の分断をさらに広げてしまう。登山に例えると、資産を持たない人が、経済ランクの上昇を目指す場合、30年前と比較して、山頂が何倍も高くなったのと同じだからだ。いくらかの資産があって、山の中腹から登頂を目指す人にとっても同じだ。社会全体の富の全面的かつ絶対的な増加は、連鎖的に社会の格差を増大させる。富の分配の不平等が大きくなっている場合は、特にその傾向が強くなる。

p. 68

すなわち現代の若年層と高齢者層が若年層だった時代とを比べると、現代の方が経済資本の構築が難しくなっているというのだ。そして収入:資産比率も資産が超過しているという。経済資本の格差は、収入に注目すれば職種に差が生じるが、資産も合わせて考えると世代間格差がはっきりしてくる。

文化資本

文化には「正統」と「邪道」というカテゴリーが存在する。クラシック音楽を聴いたり美術館でモネを鑑賞したりというのが正統であり、高架下でヒップホップを鳴らしたり壁にスプレーで丸い文字を書いたりというのが邪道だと考えられているのは、この文章の読者ならば認めるのではないか。

しかしこのような価値観は年齢によって若干差が出る。若年層ではヒップホップなどのポップカルチャーに関心を示し、高年齢になるに従って認めなくなっていく。従ってこれまで「文化的に優れている・劣っている」と考えられてきたカテゴリーに分けて判別すれば、文化資本にも世代間格差があることがわかる。

しかし英国階級調査とそれに付随する調査によって分かった最も瞠目すべき事実は別にある。

第一に、公共の場での文化的活動が正統的と考えられるようになっている点である。劇場へ行く、美術館をめぐる、ライブへ足を運ぶ、こうした「家から外に出て楽しむ」文化活動が好ましいものと考えられるようになっている点は、根暗な自分からすれば好ましいことではないが、認めざるを得ない。

家の中で一人パソコンを見ているオタクと街に繰り出しグッズを買い漁り聖地を巡礼するオタクとで、どちらの方が好ましいか、このような議論で考えてみれば、少なくとも世間的には後者の方が受け入れられるだろう。本書ではその理由についても考察されている。

文化的な断絶は、正当性、自信、余裕と関係している。表3-1のA群の活動を選んだ人々 [公共の場での文化的活動に嫌悪を示すグループ] の多くは、社会一般で広く知られ正当だと思われている活動には参加していない。そのため、「同好」の人々の幅広いネットワークに入っていることが少なく、社会から賞賛されたり認められたりすることも少ない。対照的に、B群 [積極的に公共の場所で文化的活動をするグループ] の活動に参加してきた人々は、単にある種の文化を消費するだけでなく、文化的活動に携わってきた自信によって文化資本を蓄積していることがわかった。私たちのインタビューが示すように、フォーマルで「正当」な、 国が支援するような文化的活動に親しむことによって、文化的価値について語り、趣味の良し悪しを判断し、その判断を公言する「権利」について、驚くほどの自信が育まれているようだ。

pp. 101-

実際、自宅でアンティーク家具の収集をしている人は自分の趣味に自信が持てないと言う例がある。側から見ればアンティーク家具の収集は立派な趣味だが、当人からすれば普段自分の文化的活動が社会的に妥当であると理解できる機会がないために、自信を持つことができないのだ。

ちなみにこの調査結果のためか否か、「英国階級調査の開始直後の1週間、ロンドンの劇場のチケットの売り上げが平均191%も増えた」という「不思議な現象」が起こったことも申し添えておく。

第二に、上層階級が文化についてとやかく言う内容にも注目したい。

インタビューの間に彼らが「趣味の良さ」についてどんな発言をしたかによって、彼らがどの程度、自信を持っているかが明らかになった。教育レベルが低く低所得の人々は、文化的活動に関心があっても、趣味が良いかどうかの判断基準には、確信を持っていない様子だった。
(中略)
社会的に恵まれた立場にある人々の態度は、(中略)自分は「趣味がいい」という自信を持っている。

pp. 100-

これは特にエリートがポップカルチャーへと向ける意識に表れていた。

インタビューの回答者を見る限り、多方面にわたる幅広い嗜好は必ずしも文化的寛容伴っていなかったからだ。確かに、裕福で高学歴の人々は幅広い文化活動に関心を持っており、そのことについて流暢に語る様子には感心した。しかし同時に、そうした文化への関心を語るときに、彼らが自分の知識や鑑識眼を意識していることが見て取れた。ポップカルチャーについて語るときはその傾向が顕著だった。高尚ではない文化については、自分の蘊蓄と眼識を口にせずはいられないのだ。

p. 106

私たちは、インタビュー回答者の方から、作品に触れて理由もわからず感動すると言うような直接的かつ感覚的な反応には、最初から懐疑的な目を向けていることに気づいた。 そのような経験がないといった回答者はいなかったが、それは原則に対する例外「ギルティー・プレジャー (良くないとわかっているが、やってしまうこと)」と考えられていた。

p. 111

流行に流される人や単一な、あるいは単純な思考しか持たない人々と自分をはっきり区別するために、洗練された多彩で柔軟な思考をアピールすることが広く行われている。たとえ露骨ではなかったとしても、それこそが現代の新しい階級のスノビズムだ。

p. 118

上層階級にとって、文化資本とは単純に文化活動に親しむことではなく、文化活動を親しむに足る素養があることだと捉えられていることを暗に示している。それはある意味自分の趣味を擁護する理論武装であり、武装するために趣味を持っているとまでは言わなくとも、「こんな趣味がある自分って素晴らしい」という陶酔なのではないか。

社会関係資本

社会関係資本という言葉から考えるに、人と人とのつながりの豊かさを表すのだろうということは想像に難くない。しかしその「つながり」はどれほど親密な関係を指すのだろうか。

私たちは、人生に最も大きな影響与えるのは、家族や親友など最も自分の近くにいる人々だと考えていた。しかし、グラノヴェッターは、実際に私たちに利益をもたらしてくれるのは、むしろ、通りすがりと言っていいほどの弱いつながりの人たちだと主張した。なぜなら、家族や友人のようにつながりの強い人たちとは情報を共有していて、自分が知らないことを教えてくれることはあまりないが、弱いつながりの人々は、私たちの日常の生活から離れたところにいるからこそ、その人が教えてくれなければ知り得なかった有益な情報を持っている可能性があるからだ。

p. 125

つまりパーティーで名刺を交換した程度の人脈が社会関係資本になるというわけだ。当然このようなつながりは満遍なくは広がらない。地位が高いと考えられる職業の周りには、それ相応の階級の人がまとわりついてくる。

階級の捉え方

階級に拘る心理

階級の現象的な実態はこれである程度わかった。しかし、階級の差異を強く感じるのは人間の心であり、我々はそのような心理についても目を向けなければならない。

まず、なぜ我々は階級という言葉からあまり良いイメージを受けないのか。もちろん「人類は皆平等であるべきだ」という信念があることは認めるが、それはあくまで建前であり、自分が上層階級に行けばそんなことなどつゆほども思わない人が多くなっていくことだろう。階級に関する議論においては、人類全体の階級よりも自分自身の階級がなぜ低いのかという個人的な不満にたどり着くのがしばしばである。

現在のように社会構造の中層の境界があいまいで複雑になると、人々は自分が上昇しているのかどうか確信が持てないため、同じ職業の中で頂点に立っている人々を手がかりにする可能性が高いだろう。その場合に劣等感が生まれやすいことは想像に難くない。(中略) 社会の階段を登った人々は誰でも様々な外的な困難に直面している。しかし、彼らが話した困難は例外なく、他人が下した評価や決めた障害と同じくらい多くの内的な自信の喪失についてだった。

pp. 188-

また、単純に階級が高ければ良いというものでもない。特に低層の階級から上層の階級へとランクアップした人たちは、その点をひしひしと感じている。

インタビューの回答者に、2つの世界の板挟みになっている感覚を持つ人が多かった。社会階級を大幅に上昇した人や短期間に駆け上った人は特にその感覚が顕著で、子供時代に親が階級を駆け上がる経験をした場合は特にである。「文化的ホームレス」[上層して新たに入った階級において自分の生来の文化とそこでの文化が折り合わず、文化的に居場所がないように感じることと読み取れる] の感覚を味わった人も多く、矛盾する2つのアイデンティティーと折り合いをつけるために精神的に疲弊した話をしてくれた。

p. 190

これは文化資本の摩擦に限らず、経済資本についても同様である。古くからロンドンに一軒家を持っており、先にあげた土地価格の高騰によって経済資本が瞬く間に積み上がった人たちは「周りに高収入の人たちが住むようになって自分の居場所が狭くなった」というように疎外感を感じ始める。

またこんな意外な心情も登場した。

上昇志向はあっても、その野心は限定的であることが浮かび上がった。イギリス社会の上層に達することは、自分の出身階級やその文化を裏切ることになると感じている人が多いのである。いずれにせよ、上層に階級を移動した回答者たちの多くが労働者階級のアイデンティティーを強く保持しているという事実は、階級への義理といった感情的な力が、過去との密接なつながりの中で、様々な問題を複雑にもつれさせていることの証左であろう。政治は社会流動性拡大の必要を声高に訴えているが、 必ずしも誰もが上層への階級移動を望んでいるわけではないのである。

p. 192

階級への義理とはどのようなものか、私には想像はつかないが、「階級を上がったところでどうせ上層の人間と摩擦が生まれるだけだ」という心の現れなのかもしれない。

階級への心理として、この英国階級調査では非常に興味深いことが起こった。

以上のようにBBCの 英国階級調査には、経済的に恵まれた、高学歴で経営や専門職の仕事に携わる人々の参加率が高く、肉体労働者や少数民族の参加率が低かった。

p. 13

これは上層階級の異常な階級への興味と、下層階級の異常な階級への無関心とを表している。本書ではエリート・プレカリアートそれぞれの視点からこの心理を考察している。

エリートの階級への異常な関心

この調査でエリートの参加率が高かった理由として本書では3つ原因が考えられているが、特に普遍的なものを1つ挙げるとするならば、以下のことが指摘されるだろう。

エリートの参加率の偏りを説明できる理由は他にもあり、第3の理由は、一種のテクノクラート(高度な専門知識を持つ高級官僚)としての自身の現れだ。普通のエリート階級は知性に自信があり、階級調査に参加することに関心を持っている。また、他の階級の人たちと比較して、自分自身に強い興味があるため、国民の理解を高められる「科学的」なプロジェクトとなれば、特に進んで参加したと思われる。この現在のエリート層は、自分を上級で優れていると考えているが、そのような見解を公に吹聴するのは品がないことだとする「紳士的」なアイデンティティを持ってはおらず、科学的に構想された調査において自信を誇示したいのだ。

p. 279

これが本書でたびたび強調されるスノビズムにつながる。上層階級はややもすると自分が上層であることを自慢げに思っているような行動を見せてしまうかもしれない。いわゆるお高く鼻についている様子で、一般に品がないものとして忌み嫌われている。

過去と比べるとその傾向は幾分か弱くなっており、上記の引用で挙げたように現代の上層階級は紳士的なアイデンティティを失いつつあるが、自分の階級をおおっぴろげに喧伝するのは避けていることが想像できる。そんな激しい主張を避ける手段として、自分ではなく第三者の科学に自分の階級の判断を委ねることによって、自分の階級を自慢げにならないように自慢しようという魂胆が垣間見える。

このスノビズムは本能的なのか、逐一の言動に通底しており、例えば社会関係資本について、「自分は下層階級の人とも知り合いである」ということは上層階級の一種のステータスになっている。

特定の人々としか交友がないと発言するのは「常識的」でないと考えられているのだ。そうした発言をすると、心の狭い、お高くとまった、あるいは洗練されていない人間だと思われかねない。

p. 123

現代のスノビズムは、今では以下のような側面を持っているという。

階級の存在をあまりにも強力に証明する新しいスノビズムが働いている。しかし、それは、あからさまなエリート主義の目印として注意をひかないように、密かなやり方でなされているのだ。

p. 333

ではどうしてスノビズムが見えにくい形で現れるのだろうか。1つには先にあげた「紳士的」なアイデンティティの残香と捉えられる。

しかし「階級の継承」のセクションで取り上げたような、能力主義への信奉という側面を見逃してはならないだろう。階級を肯定することは自分の努力が取るに足らないものだったという証左になりかねない。自分は出自ではなく能力によって評価され続けてきた。それゆえに自分の階級ではなく能力へ目を向けてほしい。そのような思いの現れのようにも見える。

プレカリアートの階級への異常な無関心

英国階級調査に参加したプレカリアートが異常に少なかったことは、イギリス全体でプレカリアートの数が少ないことを意味しない。

そもそも上層と低層で階級に対する理解が大きく異なるのは注目しておくべきだろう。

もう1つはっきりしたパターンは、階級が下層に近づくほど、階級に属していると思う人の割合が減少することだ。エリートの半数近くは階級意識を持つが、プレカリアートでは4分の1に過ぎない。(中略)実際、自分が階級に属すると考える傾向は、底辺にいる人たちは一番少ないが、最も恵まれている人たちではかなり多くなっているのだ。

p. 337

「階級がない」というのは必ずしも「社会に居場所がない」という意味ではない(もちろんプレカリアートが社会に居場所はほとんどないと考えるのも無理はない)。階級に属することを認めてしまえば、自分の生活が悲惨なものであることを自覚し、自尊心を自ら傷つけることになることまでわかっているためだろう。

プレカリアートの人々は、自分がいる世界がどんなところであるかよく「分かっている」。とはいえ、彼らは自分たちが他人の定義や決めつけを受ける側にどんなふうにして置かれているのか、それもまた分かっている。このような構図が、都会で貧しく暮らす人々の生活に影響を与えている。

p. 309

特にこの傾向は男性に強い。

女性たちは自分が社会階層のどの位置にいるか(最下層)ということを明確に認識し、それに疑いも幻想も抱いていない。一方、男性たちは社会階級についてははっきりした考えがなく、それについて考えること自体に抵抗を感じていた。

p. 314

このために、プレカリアートは他の階級と関わることを極力避け、プレカリアートの中で生活しようとする。謂れのない「貧困ポルノ」によって国民から袋叩きにされている当人からすれば、このようなスタイルを取るのは死活問題である。

プレカリアートの人々は、社会から見下され、愚弄されていることを知っている。だからこそ、むしろ同じ境遇にある「自分たち」の中に留まっていたいと思っている。彼らにとって重要なのは、外部の世界の人々よりも、同じコミュニティの同胞に好かれ尊敬されることだ。

p. 327

この見下しの視線というのには2種類の意味がある。

第1に「自分はプレカリアートではない」と安心「される」ということ。プレカリアートでなくてよかったという思いは、プレカリアートを悪とみなしている証拠でもある。

第2に「貧困ポルノ」と呼ばれる蔑視を受け続けていること。「ろくに働かない人間の生活保護のために汗水垂らして働いた税金を使うな」という主張は、(意外かもしれないが)多くの場合に的外れであることは既に見ている。これが差別意識に如実に現れていることが指摘されている。孫引になるがここに引用しよう。

身体、外見、振る舞い、装飾品は、貧困層を符号化する際の中心になっている。それらの符号が特定の居住空間のイメージ、特に「公営住宅」のような言葉と結びつくと、人々は「病的に見える点を結びつけて (join up the dots of pathologization)」その状況を理解しようとする。つまり、ある種の装いや話し方、住まいは、軽蔑される「階級であるということだけでなく、根底にある病理」をも暗示していると理解してしまうのだ。ローラーやスケッグスガ明らかにしたこの根底的な病理は、趣味や、あるいは趣味がないことに対しても言える。

P303, cf. Skeggs, “Class, Self, Culture” p. 37

プレカリアートが文化的活動をしていないというのは全くの誤りである。ただし、上段の「文化資本」の項目で見たものとは体裁が異なる。「文化資本」で仮定されているのは個人の教養としての文化であった。それがライブに行ったり美術館に足を運んだりという、どこか他人と関わる要素のありそうなものであっても、やはり文化的な活動をしている自分に酔っているのである。

一方でプレカリアートの文化活動は、それ自体に大きな意味はない。テレビを見たり酒を飲んだりというのが楽しいというよりも、それを誰かと一緒にしている時間が楽しいと考えるのである。

彼女たち [プレカリアートの女性] は、そうした文化活動を、家族や友人と一緒に経験した思い出として大切にしている。文化的活動をもっと個人として楽しむものと考えている傾向のある高学歴の中流階級とは顕著な違いがある。

p. 317

テレビを見たり酒を飲んだりといったことがなぜ「文化的でない」と判断されるのか、当人には全くわからない。これは決してプレカリアートの無知を責めるのではなく、「文化」というものを階級自慢に使っている、いわばスノビズムの示唆を意図して言っている。

なぜ「上層」「下層」に囚われ続けるのか

ここまでを振り返って、「最初と言ってること若干違わねーか?」と疑問に思う方もいるだろう。この本では経済資本、文化資本、社会関係資本という3つの指標を導入し、これまでの階級に対する一次元的な理解を脱却してより重層な階級像を見出したとした。とはいえここまでの話で何度も「上層」「下層」という言葉が出てきている。

1つには各資本の連関作用が影響している。金の集まるところに文化は集まり人も集まるのは世の常である。孤独な資産家がいるように、それが当てはまらない事例も多々生じてきたことは事実だが、全体的な傾向として3つの資本が集約されていくのは半ば自然の摂理である。

第2に、著者はこれだけ3次元的な階級の解釈を説いておきながら、やはり一次元的な階級解釈から脱却することができなかったともみなせる。仮にそうでなくても、想定した読者が一次元的な階級理解に染まっていれば、わかりやすさを重視すると「上層」「下層」という言葉を使わざるを得ない。

だが最も考えたいのは第3の理由である。これまで「上層」「下層」と呼ばれてきた人たちは、3つの資本を全て持つ上流階級と、3つの資本をいずれも持たないプレカリアートという、正真正銘の上層・下層であるという理解だ。

「上流階級」というと、我々はすぐダウントンアビーに登場するような貴族であったり、年収何億といったIT系社長であったりを想像してしまう。確かに彼らは上流階級の一部である。しかし、現代においてそんなわかりやすい上流階級よりも、隠れ上流階級の存在に目を向けるべきなのかもしれない。

実の所、「普通の」エリートは必ずしも華やかで輝かしい存在ではない。

p. 295

我々は上流階級という半ばフィクションに近いような言葉に踊らされすぎて、自分の階級がどれほどのものなのかしっかり目を向けようとしなかった。

それは自分の努力が水疱に帰すからかもしれないし、自分の能力のなさをまざまざと見せつけられるからかもしれない。もしかすると、上流階級なら下層の人間に手を差し伸べるべきだ、低層階級ならプライドは二の次で公的福祉に頼るべきだ、といった自分を縛る固定観念を自分から遠ざけるためかもしれない。

そろそろ、社会階級の実態を、そして自分の階級の位置を直視してもいいのではないだろうか。

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