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個人と制度―山口晃さんの言葉から考える

今日は、Tokyo Art Beat(X@TokyoArtBeat_JP)が「Why Art?」と題した企画で山口晃さんのインタビュー動画を投稿していたので見た。

山口晃さんは著名な現代美術家である。有名な仕事だと、大河ドラマ『いだてん』のオープニングで背景の絵画を制作したり、東京パラリンピックのポスターにも選ばれている。腕を失った女性が馬に乗って口で凛々しく弓を引く絵を、見たことがある人も多いのではないか。

私は、母が山口晃さんの大ファンなので、小学生~中学生の頃に山口さんの絵を見て、「絵がうまいとはこういうことだ」と教えられた。さらに、同時に反骨精神が無ければ美術家は名乗れない、という観念もここでインストールされた。山口晃さんとよく対比して語られることの多い会田誠さんは、同じ新潟県の出身である。さらに同世代の村上隆さんを合わせて、この3人は「一般人でもギリギリわかるラインの現代美術作家」として、私の中の「現代美術家像」を形成した。反骨精神と、高いデッサン力を持ち、鋭い批評性で世の中に切り込んでいく―そんなイメージである。

以前、機会があって山口さんの講演会に参加し直接お話を聞いたことがあり、まあ感無量であった。そういう見方をされることを嫌う感じの方だったので申し訳ない気持ちもあったが、それも含めて「会って話をした」という経験は私にとってかけがえのないものであった。(ふと、福田美蘭の「フランク・ステラと私」を思い出したりもした。そんなミーハーな部分も含めて美術という制度なのであると言っていた。)

その講演会、アーティゾン美術館で開催中の「ここへきて やむに止まれぬ サンサシオン」、そして記事冒頭に貼った動画のすべてで山口さんが繰り返し伝えているのは、「個人が美術史などの制度に対してどのように向き合い、距離をとるのか」ということだ。

私の講演会のメモには、「行為の中にすべてがある 制度に先立つもの 鑑賞者を必要としない」「制度が強いてくるものに個人を捧げちゃいけない」「私的言語の領域を守る 共通言語になったら死ぬ」などと書いてある。いくぶんかパラフレーズされているニュアンスもあるが、動画でも同じことを言っているので大枠は間違ってはいないはずだ。

山口さんは、美術史はしっかりと踏まえた上で、徹底的に個人の側に立つ作家だ。「制度」という言葉は、美術の文脈においては、一般的な意味よりも少し深いニュアンスを持っている。美術の「制度」とは、美術館であり、美術館を許容する社会であり、美術の歴史であり、ようは「美術という奇妙な営みを、"社会的に"成り立たせるシステム全体」のことを、制度と呼んでいる。そして、現代美術とは、多くがこの「制度」に対する疑問から始まっている。

しかし、制度とは権威に言い換えられる。美術史とは権威である。美術館とは美術が権威的であることの象徴だ。そしてこの権威から認められようと躍起になって、作家は制度に飲み込まれていくのだ。

制度に飲み込まれている作家として、私がパッと思いついたのはホックニーだ。ホックニーは自らの仕事を、洞窟絵画から連なる西洋美術史に位置づけるのに必死だ。そのための自己プロデュースのうまさは、悪い意味で現代美術家的だといえよう。

動画では山口さんはこのように言っている。

やっぱりある個人に根ざしたものっていうのが制度の重しに耐えられなくなるようなところがあって、「アート」というものと「アートシステム・アート業界・アートワールド・美術史」、そういった本来的なものから派生したものが、主客転倒になっちゃうと死ぬ。

山口晃

個人のそれぞれの行為は、美術の「制度」とは全く無関係にあり、その行為の部分に美術の本質的な何かが存在しているのであって、それらはただバラバラに存在している。しかし何者かが、それらを紐づけ関連付け意味付けをして、美術史という一直線の進歩史観的な見方が生まれた。なので、作家はてんでばらばらに自分のやりたいことをやり、後の時代の人や批評家が何を言ってもおかまいなしであるべき、ということだと、私は解釈した。

個人の行為が「制度」と全く無関係にあるのかどうか?というところに疑問は残る。例えば美大受験に並々ならぬ情熱を注ぐことは、どう考えても「制度」ありきの情熱だ。美術の授業で褒められることがモチベーションなら、それもまた「制度」ありきの情熱である。そう考えると、「制度」とは「鑑賞者が存在すること」なのかもしれない。だから、山口さんは「鑑賞者を必要としない」と言うのだろう。しかし鑑賞者を必要としない、ただ自分の意志のみで作られるアートは、確かに本質的かもしれないが、それを見たいかどうかというのはまた別の話だ。しかしそのようなアートは「見られる」ことを想定していない。だから、それでよいのだが。果してそれで満足できるのだろうか?描きたいものがなくなったらそれで終わりなのか?いや、終わりでよいのだ。だって、誰かが自分の作品を待ってくれている、などは関係ないからだ。いやしかし….と、否定したい自分がいる。

そう考えていくと、「アートとは本来鑑賞者を必要としない」というのは、とてつもなくアナーキーな提言だ。作家はふるいにかけられる。それでよいのかもしれない。鑑賞者がいないと作品がつくれないような作家は、作家ではないのかもしれない。

なんだか自信をなくしてしまったが、憧れの作家とはいえ正しいとは限らないし、同じ道を歩まなくてもよい。ひとつの重要な意見として、心にとどめておくことにしよう。

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