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ガンダム苦手マンが機動戦士ガンダム GQuuuuuuX をみて謝るに至った話。
思えばガンダムてのもずいぶんと象徴的なもので。
なんせお台場付近に立っていたらしい実物大ガンダムが丁寧な解体を経て大阪万博に移設されたりで、アニメ大国ということで通っている本邦にとって下手すると国旗よりもずっとアイデンティティでシンボリックである。
実物大模型をおっ立てるというのはガンダムという作品および愛好家にとっても恐らくは意義深いものなのだろう。通説で知るに、かの作品は、こどもがオトナに対抗するためのゲタ的大道具であったロボットを、威力行使の手段としての兵器に置き換えて文化間の闘争手段とした。いわばこども向け玩具の販促手段でしかなかったロボットアニメを改めて、勧善懲悪では収まらない奥行きある作品として仕上げたものであるらしい。
いわばロボットに現実味を付与したのがガンダムであって。それを実物大で建造する好意はアニメから現実への輸出であるし、しかも文化としてのアイデンティティさえ背負う存在となっているのも、その出発点からするとなんとも遠くへきたもんだ感がある。
というのはオタクをやってると副流煙として摂取する程度のネットミームまじりの「通説」であって、実際にガンダムを追っている人々にとってはあっさいパチャパチャした理解であるのは承知している。
そのうえで。
今の世代の子供らはだいぶ違う環境に生きてるような気もするけど「ロボット」てのは男児向けホビーの超代表格だったんよね。アレです。「おとこのこって、こういうの好きなんでしょ……?」という言葉と共に供される類いのものです。
私は男児だったし、オタクだけどもガンダムは知らんで育った。
男児だしオタクだからガンダム好きだよね的な圧を感じたりすることもあったし、もうちょい個人的なことをいうと、バーチャロン及びアーマードコアというロボット対戦ゲームの輝かしい先駆けたるゲームが大好きだったけども、そうしたコミュニティに属してると上記の感じなくてもいい“圧”を感じることもままあって「おれはチャロンが好きなのであってロボットが好きなのではない」的な反発を感じたりもしてたもんです。
そういうひねくれた目でみてみると、ガンダムという作品はある種の自縄自縛に陥ってるようにもみえた。人間ドラマや戦争というもののリアリティや、ひいては社会的なテーマを内包しなければガンダムとして相応しくない、もしくは兵器としてのリアリズムや必然がなければならない的な。その反動的に「ロボットプロレスでブンドドしたいんじゃあーー」的作品も定期的に産出されてたみたいだけど。
いわば大人びてないとガンダムではないみたいな。
ひねくれた目でガンダムを眺める人間にとってはそのへんって格好の反発材料になるんよね。ガンダムオタクは政治もオモチャとしてしか語れない、暴力でイデオロギー的対立が解決できるはずない。ガンダム的リアリズムを書こうとすると結局のとこ巨大人型兵器という存在が冗談にしか思えないみたいなアレ。
繰り返すがひねくれた目でみるくせに作品そのものは大して追ってもない浅パチャ目線である。
機動戦士ガンダム GQuuuuuuX の BEGINNING は、そうした浅パチャに鮮やかなしっぺ返しをくれた。
「ガンダムは兵器でしかなく、それに乗る個人、もしくは周辺にある個々人こそ物語の主題である」
ハイ、結構。
「ガンダムが走るのは戦場であり、戦争は政治闘争の一形態でしかなく故に正義などない」
ハイ、結構。
「じゃあ、こういうこともできるよね?」
というのがあの赤いガンダムという回答なのだと思った。
これがほんとに鮮やかなのは、主題がどこまでもガンダムだということだと思う。「現実」ではなくて「ガンダムという作品の戦争」のなかでそうした転換……というよりかは、主題をえぐりだしてみせた。
ガンダムの扱うリアリティがどうにも薄味に感じてしまうのは、なんつったって現実の方が味が濃いからだ。イデオロギーの対立、シビリアンコントロール、冷戦構造、軍産複合、難民、テロリズムなどなど、濃くて重たい現実からそれら問題を借りてきて創作作品のなかでロボットにばーんとさせてなんとかした気になったのではなんかこう、薄くて寒い。いわば子供じみていて大人びてない。
個人的に思ってたのは、ガンダムに現実の後追いをさせてもどうにもならんのじゃないかというか……。
何度も繰り返している通り、私はガンダムをあんま知らん。
あんま知らんから、連邦の白い悪魔を赤く塗り替え、木馬型戦艦を鹵獲し、アムロという存在を歴史に登場させず、ザク型モビルスーツの研究を停止させ、たかが石ころ一つを合理的な手段で回避したあれら歴史改編がどんだけ冒涜的なものかはわからないけれど、しかしそれが冒涜的な行為なのだと観客にびびらせるほどにガンダムには「歴史」や「世界」があったのだ。
ガンダムは象徴ではなくただの兵器である。
だから乗る人間が変わればこんなことにもなる。
それだけの話でしかないのに、それでもそれが冒涜的であるのは、皆が皆、口を極めて「早く観に行け!!!!!」と叫んでいることでも感じられる。
その歴史や世界とは、ガンダムを好きな人々が積み重ねてきたものに他ならないはずである。
ガンダムという作品を成立させるためのリアリティは、現実世界の戦争や国際問題なんぞを剽窃せずとも、そこに求められるリアリティはガンダムという作品世界のなかにあった。
もうそこに、ここに全部ある。
そういう鮮やかな転換こそあの『BEGINNING』である。
これにはもう、私なんぞのひねくれガンダム苦手マンはしゃっぽを脱がざるを得ねえよ。現実の方が濃いからなあというダンボールじみた壁で「男オタクだけどガンダムをあんま知らんおれ」とかいうアイデンティティを担保してたのに「は? 頭から尻尾までガンダムで世界を語りますが??」とかいう徹甲弾うちこまれたらはいすいませんでしたァ! おもしろかったス!!! て叫ぶしかないんですよ。
ガンダムの歴史を冒して、改めて『ガンダムとはただの兵器である』『勧善懲悪などない』『故に予定調和などない』という大前提で進むお話が、どこに着地するのかほんまハラハラして見守ったおよそ30分でしたわよ……。
もしかするとこのハラハラ感は。初めてガンダムをみて、勧善懲悪でも予定調和でもない物語に触れたあんときの人々の感じたそれに近いのかもしれない。
という感じで大いに楽しめた劇場先行公開版な機動戦士ガンダム GQuuuuuuX だけんども。
それでも大事な大前提として。
でもこの BEGINNING が作品そのものにどんだけ寄与すんのかはまだわからん。
て事よね。
なんかちょっと折角なんでマニアックに設定を語ってみただけですよー下地でしかなかったねーてなる可能性も全然あるわけだし。
作品は結局のとこ、全部終わらんと評価を定めるこたできんのよね。
それでもまあ……シャアがガンダムを鹵獲したのと同じように、本編主人公がなんかスゲーサイコミュ的な素養を持つ存在なあたりに「本人の望むと望まざるとを問わず資質を持ち合わせた個人」なお話を描く意図が(それは BEGINNING でオミットされてしまったアムロの存在である)みえるし。
『マブ』て単語のそりゃあもう意図的な用法のその意図がみえきってないあたりからまだ作品そのものの主題に至ってないのが察せるし(他者と通じ合えるサイコミュ的な話だと察せるしやっぱ個々人の関係のありように主題を置くのだろうか)(シャリアだっけ? なおじさんのシャアへの執着っぷりのスゴさとかな。戦艦の横をガンダムが通り過ぎたのに、それにシャアが乗ってないと理解してたから目もくれなかったのはいい演出だと思った)
よくもわるくもやはり全容はみえてないので、この個人的な盛り上がりもそれはそれだと感じつつ……でも……閃光のハサウェイでちょっと勿体ぶってみせた都市間で巨大人型兵器の暴れる迷惑さを、あんだけ軽やかに描いてみせつつもコロニーの真ん中に浮かぶ木馬を描くことでまだ戦争から遠くない世界の日常を描いてみせる手腕とか、伸びやかなマチュの動きとかにもやはり「ええやん」て感じる部分はあるし。
竹さんデザインのキャラみてるとポケモンぽさもあってなんか独特なドライブ感もあるし……氏のキャラデザに特徴的なマスカラめいた目の縁取りと、作品の主題に近かろうサイコミュ的なあのカラフルなキラキラとが上手いことマッチしてるよねとか。
……ただ懸念としてはなー。フリクリっぽいのがなー(そりゃあ鶴巻監督作品だしね)。
私はウエダハジメのあのカッサカサな鼻を木でくくったようなフリクリに先に入ってそっちが大好き過ぎたせいでガイナックス版フリクリがちょっと苦手だったりしてさーとか懸念はなくはないんだけどーとか諸々あるけども。
でもまあ、観るわよ。絶対観る。12話だか24話だかわかんないけど、そのくらいの時間なら絶対にこの作品に費やしますよ。それはもう決まった。決めた。決められたわよ。