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ガチャのゆがみと小梅ちゃんのひずみとわたしの。
(最初にヨモスガラ小梅ちゃんがきたときの
とにかく遠い目をしながら垂れ流した繰り言の、限定復刻を機会とした再放送です。)
歪んでいるとして。
ソーシャルゲームにおけるいわゆるガチャ商法が歪んでいるのは事実だろう。
事実だろう。
事実ではなかろうか。
違うだろうか。
なんか違う気がしてきた。例えばギャンブルあたりと比べてみたらどうだろう。ギャンブルはどんなものであれ胴元が利益を得るよう確率が設定されているので、どんだけ金と時間を費やしても費やせば費やすほど損に傾く仕組みで要するに金と時間で得られるものは一時的な興奮のみてことになる。
金と時間を費やして得られるものは一時的な興奮のみ。
こう書くとガチャと大体同じだね。
……ギャンブルて歪んでるんかな。……まあ歪んでるかな。多くのギャンブルはあきないというよりかは集金手段であって、公共事業に類するものとして世の中に存在を認められているわけだから……まあそっち方面に話を延ばすとややこしいというか話が別方向に進んじゃうからいいや。
ガチャは歪んでると言うことにしといてください。
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まあそれはそれとして。
小梅ちゃんのなかにあるひずみ。
今回のヨモスガラパーティーは、久々に、私のみたかった小梅ちゃんの表情(側面)をみることができたような気がするんだよね。
小梅ちゃんの特徴といえばホラー・スプラッタ映画が大好きで、死者の存在を見通し心を寄せることができる点でしょう。
死と腐敗と暴力と危険と血と暗がりや孤独と悲しみ。
一般にアイドルから連想されるポジティブなイメージとは真反なそれらに心を砕き、自らの個性だと自認し、それらへの愛おしさとともにステージという明るい場所に立つ。
廃墟のなかで、凶兆を多く背負い、死臭のただ中で自然に笑い、あまつさえ「こっちにおいで」と誘う。
なんて蠱惑的な。あるいはなんて淫靡な。
死を無視して通ることのできない私たちはだからこそ死を普段ないもののようにして過ごす。それを、そこに、何を衒うことなく触れることのできる小梅ちゃんは無垢なままに禁忌を犯しているのにも等しく、死生観に頬寄せるその姿は有り体にいえばエロい。
ひとの視線を集めることもアイドルとしての素質ならば、極めて強力な武器を小梅ちゃんは無自覚なままに振りかざしている。
ネガな部分を克服し、ポジティブの象徴であるアイドルへと成長し皆の憧れる存在となる。
それも物語としては王道ではあるけれど、ネガな部分は小梅ちゃんにとって心臓か、脳髄か、目玉か、舌か肺か指先にも等しく、彼女自身もそれを自認している。だからその道は選べない。
ゾンビを愛し、亡霊を友人とする彼女の核にあるのは「虐げられたもの、押しやられたもの、輪に加われぬもの」への憐憫と共感であろう。
であればこそたどり着いた「私、みんなとちょっと違うけど……アイドルになって、良かったです」「私、暗いけど……みんなも暗くてもいいんだよって……ファンに伝えたいな……」という境地。
だからこそ小梅ちゃんは怪物たちとともに踊る。
忌まわしいものに手を差し伸べ、救われないものの手を取って。そのダンス・マカブルこそが小梅ちゃんのみが為し得るアイドルとしての姿だ。
要するに小梅ちゃんはネガティブな部分を克服してはダメなのだ。ネガティブも自分自身だと認めたからこその小梅ちゃんなのだ。
明るく、健やかであることだけがアイドルじゃねえ。
アイドルと、アイドルというイメージから反目するものごとと、それを同時に抱えたひずみこそが小梅ちゃんであり。
小梅ちゃんのテキストを担当される運営の皆様方におかれてはその部分にこそ重きを置いていただきたく願う次第である。
あとエロいよね今回の小梅ちゃん。
「露出は抑えながらもきわどさを忘れないフェチズムにあふれた衣装」てのは初登場時から続く小梅ちゃんに欠かせぬ魅力の一つであって、その点でも今回はなんだか久々な気がしてああああもうステキーエローイという感じだ。
「ここが脇ですよ!」と教えてくれるようにひらひらして視線を集める肩紐といい、ピンポイントに透けたへそ部分といい……似合う曲が極端に限られるという欠点こそぶっちぎりつつ、それらが強調されるPVならなんでもオススメだけど敢えて選ぶなら「恋のハンバーグ」だろうか。
曲調のせいか、脳みそが絶好調な状態ならエプロン姿にみえてくるので挙げておきたい。脳みそが絶好調ならな!
なにがゆがんでいるのか。
ガチャが歪んでいるとして。
歪んでいるものに適応できるならばそいつも歪んでいるのだ。
お金の価値はひとそれぞれというのはもちろんだけど、ソシャゲの限定ガチャに50万円も費やせるひとは少なからず歪んでいるに違いない。
この場合、歪んでいるのは金銭感覚となる。
その歪みがどれくらい大きいかはわかんないけど。歪みの大小を問わないならば費やした金額が100円であれ1万円であれやっぱり歪んでることになっちゃうけどね。
だから私も歪んでいるのだろう。
私はワーキングのプーさんだからいくらかなりとも金銭感覚の歪みは少なく済んでると思うけど……吝嗇はそれはそれで歪んでるといえるけども。
その代わりに他の部分が歪んでいる気がする。
言葉に直せばたぶん執着。
小梅ちゃん限定ガチャを、限定小梅ちゃんをくだらないものと切って捨てるのはそんなに難しくはないはずなんだよね。
もしも私に「小梅ちゃん? そんなもんに金使ってるの?」と言うひとが現れるなら私が凶器になるものを手にしてない状態にしといてほしいけど。
まあ。難しくはないはずなんだけど。
それを難しくないと受け入れるのが怖い。
何が怖いかというとコンテンツとのつながりを失うのが怖い。
四肢の冷たさにガクガク震えながらクレジット決済で有償石の購入を繰り返すのも。
消えた金額で出来たことを思って気力を失い労働そのものに嫌気がさすのも。
限定ガチャに備えて無償石を貯め込むべくイベントをこなすのも。
そうしてこなした時間を時給になおして入手した石の実質価値を思うのも。
あるいは、今までCoイベントの報酬は逃してないのでそれを維持すべく時間を割くのも。
諸々もうやりたくなければやらなきゃいいじゃんという正論の前には無力な労力である。
けれどもそれを無意味だと断じてしまったならば、デレステというゲームのほぼすべてが無価値なものになる。
ひとは、あるいは私は、意味がないと感じるものに付き合うのがひどく苦手な生態をしているのだと経験的によく知っている。
たぶん「空しさ」とは万人にとって毒だ。強烈な。
私は小梅ちゃんが好きだし、アイマスもしくはデレマスというコンテンツがだいぶ好きだ。
それとの繋がりはあんまり失いたくない。
デレステというゲームはそのコンテンツを繋ぐ線のなかでは相当太い方には違いなく、そしてそれが切れてしまえば修復の難しい線であることは想像に難くない。
もちろん、デレステを辞めながらもコンテンツに触れ続けることは可能だろうけど、それら代替え手段にある種の白々しさを感じずに続けられるか。白々しさを感じる自分に嘘をつきながら続けられるかどうかはあまり試したくはない。
この執着がわたしにあるゆがみなのだろうなと思う。
小梅ちゃん限定ガチャに震えなければ、それに震えるだけの熱量をデレステに対して持てなければ。私はそれに震えていると自覚できなければ。
自己欺瞞に近いだろうか? たぶんそうだと思うけれど、自覚せずにはいられない。
『愛と執着とは似て異なるものである』
ゆがみは悪いものなのか。
ところで、ガチャが悪かというとそれはそれという話をしたくなる。
色々と意見は世に氾濫せども、ガチャを回しているのはどこまでも彼の指であって自己意思である。
嫌ならやらなければいい。正論だ。
キャラクターやゲームへの愛着を売り物にして、「お前の嫁はあずかった返してほしくば身代金を用意しろただし金額は時価となりますし一度返した嫁はまた何度でも攫いなおします」とか言う商売形態もどうかと思い続けてもはや数年ではあるけれど。
ガチャという集金形態が効率的すぎて、ガチャを集金手段としないゲームがどんどん追いやられてるという意見もあるだろうけどそれが妥当な意見かというといくらか疑問はでてくるし。その話はいいや。
それでも本人が納得して出資してるからいいじゃないか。
デレマスがアニメ化した頃を境にして、ガチャのことを「形を変えたクラウドファンドだ」という表現が散見されるようになったと思う。
アニメ一話をして「おれたちの課金が正しく報われた」という声もあった。私個人としてはアニメの出来にはいくらか意見はあれども今回はその話はどうでもいいとして。
月末ガチャに50万ぶっこむようなひとがいるからこそ小梅ちゃんのモデリングは美しくなるし、総選挙に目の色を変えるひとがいてくれるからこそ新たに声帯を獲得するアイドルがでてくる。
100%望む形で反映されるとは限らないけれど。
デレステもテキストに注文をつけたくなることが多々あるし、CDもこれ以上は望むべくもないリリースペースではあるけどもそのなかで極めて素直にこれは好きだ! といえる曲が多いかというと決してそうではないし。まあそれはいい。
歪んでいるのが事実としても、歪んでいることが悪いかどうかはまた別問題なのだと思う。
だから、私は限定小梅ちゃんは半ば以上諦める準備をしていたのだ。
限定ガチャにいくばくか突っ込んで、やたらさらさらと流れる汗とともに小梅ちゃんへの執着を確認できただけで、私にとっての限定ガチャの意味は果たせていたようにも思う。
あとは、タイミングよくきてくれた一日一回無料ガチャキャンペーンと、せめてもの60ガチャのみを回して、いつかくるだろう限定復刻まで夜露を舐めて侘しく過ごそう。それがまたデレステを続けるモチベーションに、コンテンツとのつながりになるだろうと。
わたしは元々ホラー映画が好きだ。怪談話が好きだ。遊園地でも絶叫マシンは同じものを何回か通じて乗る。
恐怖もまた娯楽だと知っているからだ。
娯楽には元々そういう側面がある。
ちょっと前に、どこかのお坊さんが「ソシャゲを辞められません」という相談に答えて「私は艦これを辞めました。優れたゲームとはひとを爽やかな気持ちにさせてくれるものです」と答えててうるせえ知るかバカやろう貴様のような虚構に募る感情を軽々しく否定するようなやつがL4D2を知ったツラで語ってんじゃねえよ例えば食いしばった歯から血のにじむような思いで怒りと憎しみを抱え夢中であそぶ対戦ゲだってあったっていいじゃねえかとか思ったことがあるんだけど。
仏教でいうと執着とはまず捨て去らなければならないものだそうです。
やらなくていいこと、知らなくていい感情をわざわざやりに、知りに行く行為という側面が趣味にはある。
山登りや自転車乗りなんかはやらなくていい苦労をわざわざ自分からやりに行っているともいえるわけで。
ホラー映画もわざわざ自分から恐怖を感じに行っているのであり、恋愛ゲームなんかわざわざ自分から恥ずかしい思いをしに行っているとも言える。
ガチャという虚空に消えていく無価値なものに費やしたとしても、この胸が抱える痛みは現実なのである。
とかいうと観念的すぎるか。
だから、とにかく、こう。
極論なのか、詭弁なのか、開き直りなのか錯乱してるのか判然としないけれど、意中のアイドルを入手できないこの脂汗も、あるいは、意中にアイドルを定めることによる醍醐味とも言えなくも……。
……ああ、やっぱりそう公言するのはどこか憚れる。
それにしたとしても、その歪みこそが。あるいは。
歪んでいることが悪いことかよいことか、結論はできないとしても。