今日の刹那ル先輩(と、わたし)

今日はいつもより随分と早く終わったので、遠回りした帰り道で自転車を漕ぎながら、
風磨くんはいつも、息をするように、と言うと大袈裟だけれど、学生時代の話をするのなぁ
なんて考えていた。
わたしは風磨くんにまだ学生という肩書きがあった時から風磨くんのことを応援しているので、そんなに違和感を感じたことはなかったんだけど、もう10年も前の話をついこの間の出来事のようによく話す風磨くんは、あの頃の記憶への癒着とか、執着とか、執念とか、ある種のコンプレックスとか、なんなのか、、、
わたしもね、まだ全然たくさん生きてもいないんだけど、事ある毎に思い出しては言葉にしてしまうような生活の記憶はあります。だからなんとなくだけど、忘れたくないとか、その頃の話をしていると良い気分になるとか、その記憶を他人に共有したいとか、あのころの自分を失いたくないとか、そういう気持ちが分からなくもない、と思う。
そんなことになってしまうのは、今はもうあの頃の日常が日常ではなくなっているからで、そのギャップこそがまた一段と記憶の価値、キラキラ度をぐんぐん上げてしまったりもする。

だからこそ、なのかもしれないけれど、風磨くんが語る、眩しすぎるあの頃の話は、今を生きてるわたしが受けとめるにはキャパオーバーだったりする。他人の記憶なので全く関係ないことは頭では分かっているけれど、“高校生”という普遍的な接点であるが故に、聞き手であるわたしの自己を無意識に持ち込んでしまう。そしてそれはもちろん“共感”ではなく、自分との“相違”への苦しみだと思う。

こんなことを言うと風磨くんをおじさんにしてしまいそうですが、風磨くんの記憶のなかの人たちは平成の高校生だな〜と知らないながらに思ってしまったな〜。「すげー真面目で良い子そうで…」とか言うからかな。境界線を引かれたような気がするからかな。

もう皮肉に聞こえるもん。「黙って食べなさい」「食べてない人も食べてる人を配慮して黙りなさい」と注意し続ける先生の監視のもとで、今日も静かにご飯を食べたので。怒られるだけじゃ済まない絶対的な正義、対抗できないことがあるんです。わたしたちの時代には。

でも、そんな日々でも、もしもこの日常が日常じゃなくなった時に、また違った感じ方をするのかなあ。屋上での朝マックも、放課後気分転換のカラオケも、なんかよく分かんないことで笑ってる掃除時間も、何気ない記憶を並べたら、キラキラ眩しく見えてくる日が来るのかなあ。失ったものなんてそもそも存在しない記憶なのだから、きっと、有る記憶だけがちゃんと綺麗に残ってくれる、寂しくも、そんな気がする。


風磨くんの語る思い出のせいで心が乱されたりするの、なんだか老害っぽくてちょっと面白いな。
冗談ですよ(笑)
だとしても、わたしの勝手な想像の中の“風磨くん“の話です。


君なんか、もうおじさんです。

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