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受容と能動のセレンディピティ
スティーブ・ジョブズの「Connecting the dots」と言う言葉が好きです。今はバラバラのように見えても先でどのようにつながるか分からない。だから無駄のように思えても興味のあることは経験しておくことが大切だ。と言う意味として捉えています。
だんだんと年齢を重ねていくと利口になるというか悪く言うと、冒険をしなくなります。例え面白そうと思ってもついつい理由をつけて行動に移さなかったり、「まぁ、いいか」と止めることが多くなります。
そして自分の好きな領域のことばかり積極的になり、それ以外の情報すら得ようとしなくなります。結果どうなるかというと、とても視野の狭い人間になってしまいがちです。人間関係も職場や仕事関係のみ。これでは自分の可能性が広がるわけがありません。
能動的な動きとはとても良いことのように思っていました。しかし能動だけでは偶然の出会いは期待できません。そこにはもう一つ逆の受容が必要になります。受容といってもただ待っていても何も起きませんので、自ら興味のないことに触れないといけません。それにうってつけなのがテレビだと言う話を先日voicyで社会派ブロガーのちきりんさん
自分の意思を持って情報を取りに行くことがネットの世界だとすれば、自分の意に反することも流れてくる情報がテレビやラジオと言えそうです。
これらの能動的な情報源と受容的な情報源のバランスの良い取り方が、今後の生き方の鍵になるのだそうです。
確かにテレビはネットと違い自分に興味のないものも放送してくれます。ちょうどその時に外山滋比古さんの「乱読のセレンディピティ」と言う本と、
養老孟司さんの「バカの壁」を読んでいて同じようなことを書かれていました。
どちらに何が書かれていたか忘れてしまいましたが、好きな本ばかりでは、得られる知見が偏ってしまい、脳も自分が好きなことしか見つけようとしないからダメだ。どんな本、雑誌、新聞の各紙面でもいいから、目を通してみると、発見があるかもしれない。全てを読むのではなくリズム良く流し読みするのが良いと言うような内容でした。
それが現代では本や雑誌に加えて、テレビも知らない情報を与えてくれる存在らしいのです。テレビを全録機というHDDレコーダーを使って、約1ヶ月の地上波BS放送を全て録画して、好きな時に好きな番組を観ることがこれからのネットワーク社会における能動的情報収集脳を解放してくれるものらしいのです。
この話を聞いた時「すごい」と思いました。何にそう思ったかというと、能動と受容を縦と横軸にとらえ、能動を縦軸、受容を横軸に例え、受容的情報収集をテレビを見ることで自分の知らない知見を広め、さらに興味を持った事柄についてネットで能動的に深掘りしていく。そうすることでこのネット社会でさらに知見を広め深掘りしていくことが可能になります。そんなこと考えたこともありませんでした。
私は普段テレビをあまり見ませんので、このやり方は自分には向いていないように感じましたが、テレビに変わる何かで受容するようになればいいと考え、思いついたのが音声メディアです。
同じ受容的メディアでありながら、ながら聴きできるので元々ラジオが大好きでした。そしてより好きな分野に関する知見を広げてくれる番組が多いポッドキャストは大のお気に入りです。テレビはながら見できる人は出来るそうですが、私はどうしても見入ってしまいます。しかし耳からの情報ですと割合ながら聴きできます。ここ数年行っているのはランニング中に聴く、お気に入りのポッドキャスト番組です。
中でも私が気に入っている番組は、
などです。これまで私の知らないことをこれらのポッドキャストからたくさん学ぶことができました。ポッドキャストきっかけで普段読まないであろう本を手に取ったり、さらに気になる内容を深掘りしたりもしています。
まだ他にも聴きたい番組がたくさんあって、死ぬまでに全てを聴くことは不可能でしょうけど、私の知的欲求をこれほど満たしてくれるものはないので、私にとっての受容媒体は音声メディアはかなり合っていそうです。
しかしここまで書いてきて、何か違うぞ!と違和感を感じました。その違和感の正体を考え直してみると、今ある情報は真実と嘘に溢れ、それが判断しづらくなっていると感じたからです。
最近あるネットを使ったあらゆる詐欺事件を見ると、「どうしてこんなことに引っ掛かるのだろう?」、「どうして誰かに相談しなかったのだろう?」という違和感です。
これは、テレビをいくら見てスマホでは教えてくれないことも情報として得られたとしても、結局自分に都合よく情報を変えてしまって自分は大丈夫としていないだろうか?疑うということが欠如している原因は体験が乏しいからではないか?と。
昔の話で恐縮ですが、私が小中学校の頃、教室にはいろんな同級生がいました。金持ちの子、貧乏の子、頭がいい子、そうでない子。真面目な子、不良の子。サラリーマンの子、商売人の子、ヤクザの子などなど。そう言った中でいろんな子と遊ぶうちに、気の合うこと仲良くなって友達になったり、意見が合わずにイジメが始まったり、平気で嘘をつく子がいたり、街に行けば不良に絡まれたり、ガン飛ばされて喧嘩になった人の話を聞いて怖いと思ったりしたことを思い出しました。
そういった経験の中で、いつしかやばそうな領域のこちらとあちらの境界を感じられるようになりました。この危ないものから身を守る防御本能の基礎を、子供の頃に学んだ体験があるからこそ、大人になった今、いろんな情報を得た時に、簡単に信じず疑い、身を守れるようになったのかもしれません。
いずれにしても情報だけでは自分の身は守れません。情報は数多くあった方がいいですが、その情報が正しいか正しくないか判断できる能力が必要です。
受容という横軸で多くの情報を得て、さらに興味のある情報に関して能動的にネットやAIを使って深掘りできる現代社会は、人間の知見を広めるには素晴らしい環境といえます。しかしそれは「自分の頭で考える」という前提があってのことです。あらゆる物事は自分の判断によって行動が伴います。やはり最後は自分の頭で考えることが重要で、数多く知っている事はあまり意味をなしません。それならばAIの方が長けているからです。
この素晴らしい環境ではあるが、知識だけでは意味をなさない時代を自分らしく生き抜いていくには、受容と能動の情報収集によって得られた事に対して、常に自分の頭で考える癖をつけることが重要なのだと再認識しました。