誰かに贈りたくなる言葉#3 夢について考えている人たちへ
手紙を書くということは、自分の気持ちを誰かへ贈るということでもあります。それは、家族や恋人、はたまた自分宛てかもしれません。
ここでは、手紙を書くきっかけになるような「誰かに贈りたくなる言葉」をご紹介します。
――――――――――
夢ってなんだ?
ちょっと“夢”について調べてみていたんです。
多くの偉人たちは”夢”を持つこと、持ち続けることの大切さを説き、そして一歩一歩、歩みを止めないゆるぎない志と行動へ誘います。
僕の周りには偶然にもそういった指南をするタイプの友達は少なかったのですが、酔った勢いがあればそんな話を浴びるほど耳にしていたかもしれません。
ですが、どうもこの手の話は苦手です。
たまに僕とは半分ほどの年齢の若人が目を輝かせながら、「若いころどんな将来の夢を描いていたのですか?」と尋ねてきます。そのまっすぐで、これから返ってくるであろう”人生の先輩”の奇想天外なアンサーに期待溢れる眼差しに、僕は辟易とするんです。いやむしろ申し訳ないという感情の方が支配的かもしれないですね。
だっていつも「僕は夢を持ったことはないなぁ、、、」としか答えることができなかったんですから。
夢の暴力からの解放
自分のこれまでを振り返ってみると、”夢”といえば眠っている間に見るもの、あるいは目指す気のない仮想空間のようなものだった気がします。
野球をしたことはないけれど、高校野球の甲子園のピッチャーマウンドには夢というか妄想上何度となく立っています。春夏のオリンピックにはどちらも出ています。当然武道館で歌ったこともあります。そしてノーベル賞候補にも挙がっていました。
それらを”夢”かと問われれば、きっと偉人が語る”夢”とは違う、睡眠中のおたのしみコンテンツの一部でしかないですよね。
本当は一生を賭して目指すもの、人生を賭けたくなるものなんでしょう(僕は少なくとも上記の夢っぽいものを目指したことは一度もないですが)。
さてさて、冒頭の言葉
僕からすれば、”夢の暴力”から解放してくれる言葉です。
当然夢をもって突き進む人には羨望の気持ちは多分にあります。もし自分がそうであったならどんな人生となったのだろうかなんて(おっと、またしても妄想癖が!)。
でもなんだか何もないから自由でいられるところもあるのかもしれません。
少年の僕が抱いた夢と今の自分の在り様にギャップを感じることもなく、焦りもなく、薄暗い海中で見えない流れにたゆたゆと身を任せながら、たまに小さな目標を見つけたらそっちにフィンをひと蹴りしてみる。
そうすると意外と素敵なモノに出会えることが稀にあります。
「人生かくあるべきなんてない、というか知らん。」なんて考えていたら、そもそも格言なんていらん!ということになるのでしょうか(笑)。
まあ夢は抱くも、目指すも、見ないのも自由。
僕は、今日の夜いい夢を見ることにします(1万回目の甲子園に向かいます)。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?