名もなきタコ焼き屋 ―ー「呑み屋は女将が9割」第1回
名もなきたこ焼き屋がある。
店名を示す看板が、どこにも出ていないのだ。
呑み屋を一人で切り盛りする女将は、たいてい魔女のようにみえる。この店の女将もまた、魔女のようだ。70歳を過ぎたばかりだというが、10万70歳だとしても納得がいく。そんな顔つきをしている。
「なんで店の名前が出てないの?」とたずねてみても、「看板が出てないと、なんか入りにくいだろう? イヒヒヒ……」と不気味に笑うだけで、答えは教えてもらえない。
この店では、たこ焼きと一緒に酒を出す。
たこ焼きには青のりを使わない。漆黒の闇のような刻み海苔を皿いっぱいに散らすのだ。まさに悪魔の料理。だが、これが美味い。食べた瞬間、磯の香りが口の中に広がり、海辺にたたずんでいるかのような気分に浸れる。
むろん近くに海はない。目に映るのは酔いどれ共が彷徨い、怪しげな商売をする異国のお姉さんが、いつもの場所で立ち尽くす寂れた町だ。
周りには小さな居酒屋やスナックが何軒も並び、そこで呑んだ客がたこ焼きでもう一杯やるために訪れる。ただ、この店の女将は酔っぱらいが嫌いだ。酒を出しておいてそれはないだろうと言いたくなるが、酔っぱらいが大嫌いなのだ。
ある日、店を訪れると、ベロベロに酔っぱらった客のバアさんが「酒を出せ!」と騒いでいた。女将と同年代のバアさんだ。10万歳は超えているだろう。女将も負けずに「もう出さない! 帰れババア!」と怒鳴り返す。
バアさんがバアさんを罵る光景ほど恐ろしいものはない。
ボクたち若手は、ただ黙って嵐が通り過ぎるのを待つ。それでもこの店が好きなのだ。女将に「うっさい!」とブチ切れながら帰っていったバアさんもきっと、数日後には呑みにくるはずだ。
そう、女将はモテるのだ。そのモテぶりは開店時からわかる。向かいの立ち呑み屋で一杯やっていると、黒いスーツに身を包んだ初老の男性が、名もなきたこ焼き屋のシャッターを開けに来るのを見ることができる。この男性は近くにあるクラブの店長で、女将に言わせると「私のファン」。毎日、女将の代わりに開店の準備をやるという。このあたりの人間関係は、ちょっとやそっと通ったくらいでは、理解できない範疇となる。
ある日、ふと気が付いた。女将が店名を教えてくれないのは、まだ俺が「常連」ではないからじゃないのか? 帰ってさっそく「食べログ」で検索した。だが、あの店はそのまま「タコ焼き屋」という名前で登録されていた。
真の意味で「名もなき店」なのだ。