才能について
孫のレミーには大して運動神経が備わっていないというのが夫の見立てだ。
現在7歳のレミーはバスケにハマっていて週3回放課後に集まるバスケのクラブに所属している。レミーの父親で夫の息子であるチーフはバスケに夢中の息子のために時折地元コロラド州デンバーで行われるNBAプロバスケの試合の観戦に息子を連れ出している。彼らはデンバーから車で1時間以上離れた郊外に住んでいるので、試合終了後にホテルに宿泊することもある。チケット代プラス宿泊費でかなりの出費になる。夫にはこれらが無駄な出費に思えてならないらしい。
ゴルフのインストラクターである夫は自らもそれなりにスポーツ万能である上に、職業柄運動能力の高いアスリートを間近で観察する機会も多い。孫にちょっとゴルフクラブを握らせスウィングさせてみただけでスポーツの素養があるかどうかは即座に見極められるらしい。スポーツが得意になるかどうかはその人の自然な動きを観察しただけでもわかる。ボールを投げる時の正しいフォーム、走る時の正しい脚の運び、ゴルフクラブの正しいスウィング等々はある程度学習を通して習得できるが、スポーツの才能を有する人間は教える前からそれに近い動きをしている。よって、才能ある者は正しい指導を受ければ上達も早い。夫の目から見てレミーの自然な動きは運動の原理から外れているらしい。ましてやバスケのように背の高さがものを言うスポーツでは身長が低めのレミーはそれだけで引けを取る。そこから夫が到達した結論:レミーはバスケではなく彼の小柄な体形がハンデにならないスポーツ、且つ学習を通しての動きの修正で上達が見込めるスポーツをするべきだ。本人の体格と能力にマッチしたスポーツをやらせた方が上達も見込める。そこから得る満足感がモチベーションとなり、更なる上達につながる。スポーツに限らず、人は自分に備わった才能を伸ばす努力をし、全く才能がない分野に於いて労力を費やすのは意味が無いというのが夫の考え方だ。
彼が好きな寓話に動物たちの学校の話がある。教えられている科目の一つである「レース」では成績の良いウサギだが、「木登り」は落第寸前だ。ウサギは毎日放課後に家庭教師から木登りの特訓を受けていた。ウサギは特訓の成果あって、ある程度の高さまで木を登れるようになるのだが落下して脚に大けがを負ってしまう。ウサギの脚は完全に元に戻ることなく、得意だった「レース」の成績は落ち、「木登り」は相変わらず落第寸前だ。
どんなに下手くそで才能がなくてもバスケが好きなら続けてもいいじゃないかというのが私の考えだ。私の中には「好きだからやるのであって、上達できるかどうかは二の次だ」という思いで物事に取り組む傾向がある。取り組むからには上達するべきだという考えの夫とはその考え方を巡って何度も議論を重ねてきたが、常に私が言い負かされる。
「どんなに好きだと思っていても思うように上達がなければ早晩好きでなくなるのは目に見えている」と言われると、そうかもしれないと思ってしまう。
続けても続けても大して上達しない何かをただ好きだからという理由で続けることは愚かなことなのだろうか。
「継続は力なり」
「好きこそものの上手なれ」
と言うではないか。
夫には面と向かって言えないが、レミーには気が済むまでバスケを続けて欲しい。
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