脳内when高テンション
うおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!
俺はこのスタンスでまで生きていい、このスタンスで生きることこそ私の真価を発揮するのだ!!!
ガハハ…..と、東京都現代美術館で現在展示されている坂本龍一のやつを見た後に思いました。
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坂本龍一が亡くなった後、NHKでcodaという彼のドキュメンタリー番組がやっていたので、それを見てからアルバム『async』を気に入ってたまに聴いていた。
流れとしては、サカナクションが好きで、山口一郎からの坂本龍一みたいな。
ともかく、そんなわけで美術館へ足を運んでみたわけだ。
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感想
展示会自体には大満足である。
特に私のよう『async』を好んで聞いている人にとっては、なお良しであっただろう。
私は特に美術館評論家とか芸術評論家と言うわけではないが、なんと言ったら良いのだろう….メゾン・マルジェラのような雰囲気もあった。
つまり、メゾン・マルジェラからマルタン・マルジェラがいなくなってから、がっつりインダストリーな販売をしているところみたいな。
まぁ、ファッション通でもないので、あまりこういうことを言うのはやめたほうがいいのかもしれない。
ともかく、亡くなったアーティストの作品をこういった形で展示するのは半分仕方がないような気がしなくもないが、少しインダストリーな感じがして残念であったものの個人的にはそこは問題ではない。
形式としては、坂本龍一の作品と他のアーティストの作品を絡めて展示すると言うことであり、多くのセクションに分かれて、ただひたすらアーカイブのようなものを見ると言うわけではなく、聴覚と視覚を水や霧などといったもので遮ってみたり、はてまたプロジェクションを反映させるツールとして使ってみたり、また音楽を流し、そういった現実非現実を融合させたりなどといった水や音楽がキーワードとなるような世界観であった。
感想はざっとこんなもんで終わりにさせていただいて。(キリがないので)
坂本龍一が当時残していたメモのようなものがあった。
まさに、私がTwitterで、ぼそぼそと自分の脳内を書いているようなメモであった。
おそらく私がTwitterで書いていると言う表現は、ひょっとしたら坂本龍一にめちゃくちゃ失礼かもしれない、というか失礼。
まぁでも書き込むデバイスが違うだけでやってる事は一緒なのである。
ともかく、そのメモたちを私は覗くことができた。
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シンパシーを感じた。
僕が坂本龍一のこういうところが好きだなと思ったのは、自分軸がしっかりあり、悶々とひたすらに彼の思考を彼なりに考え、模索し続け、それをメモと言う形でアウトプットしていることだ。
どういった考えっていうのは、まぁ多種多様なわけだが、例えば1つこんなメモがあった。
「僕は結婚式が嫌いだ。言葉の強制力、言葉の権力、野蛮な行為、反核おばさんのことば、自分の感情を他人へ押しつけること、無自覚ヒッピーや左翼達、メッセージ・ソング、音楽の強制力、〜〜〜〜〜〜。」
おお!と思った
坂本龍一もこんなことを考えるのかと。
わかるめちゃくちゃ共感した。
他にもこんなようなメモ以外にも意外と日常生活に関わる部分の考えを残したメモも多くあった。
ここから私の考えなのだが。
他人からの評価や、他の人からの視線ばかりに気を使うことがプレッシャーと感じる。嫌ったり。自分の意見と違ったりすると、押し付けられたり。そういうのを感じる人種はやはり一定数いるはず。そのうちの1人は私である。
まさに現在、私19歳社会科のイニシエーションの真っ只中だ。
そんな私は社会化の洗礼を浴びせられ、社会、つまり他の人間との共存、出る杭は打たれる、他の人との違う事は許されない。そういう社会、つまり物事が円滑に進む、、、個人ではなく、全体で生きろみたいな。。。。
アレルギーの如く、全く適用することも、何ならそれが心地良いとも感じていないが。
こういう反骨精神というか反発精神というか、こういうところに悶々と考えるって意外と他の人もしている。何ならあの坂本龍一さんもしていたんだなんて、ある意味自分の生き方が間違ってない、アーティストとしてのエネルギーの源のようなものを感じていた。
少なくとも私はアーティストではないが、坂本龍一と言う著名人がこんなようなことを考えて、確かなエネルギーのある作品を数々残してきたと言う事実から、私もこういう反発精神や反骨精神はエネルギーに変えたいなと思った。
人と違っていいじゃない。ただ人と違うなら、それなりに自分の軸を持たなきゃなぁと。