リコリスガール 【刺繍缶バッジ#034】
リコリスガール 春のうたたね
わたしは、わたしの影の形が好き。冬から春に渡ろうとするこの季節の影は、緑色が混ざりはじめるから、どこか若い匂いと勢いがあって大好き。
クリスマスローズと猫といっしょになってひだまりに寝そべっているのが至福の時間。
わたしは地べたに貼り付いて、春の鼓動を感じるの。いろんなものがいっせいに動き始める時だから、ほんとうにガヤガヤとうるさい。でも、その騒々しさが、わたしの鼓動と相まって、楽しく奏ではじめる。それはファンファーレ、春の街からやってくる楽隊。あたたかく軽やかなマーチの列。うららかに、わたしの思いわずらいのようなものを雲散させてしまう。待ち遠しいのに、その音楽はつよくつよく眠りを誘う。
わたしはクリスマスローズと猫といっしょにうたたねをする。
うたたねをしている間にわたしの影はむっくりと起き出して、自由気ままに歩き出す。その様子をわたしは夢見るように覗いている。
わたしの影は花見の客を避けて、静かな方へ静かな方へと駆け出す。まだほころびのほどけないコブシやモクレンの花の影に隠れる。同化してその成長の様子を楽しむんだ。木々が水を吸い上げてゆく音の心地よさ。ずうっと昔みたいにその水は清らかではないけれど、一時期よりはずいぶんとマシになった。今は今でまた別の心配もあるのだけれど、足のない木々にとってそれは宿命的な受容だ。
フキノトウの影に隠れ、その苦さを味わう。カエルの卵の上にぼんやり広がってみせて、そのゼリーの触感を楽しんでいる。ひんやりしていて、ひだまりとその温度の相性がとてもよい。まだ眠っているオタマジャクシにちょっかいを出す。抜け出したオタマジャクシがいたら、代わりにその中に入ってみたりする。寒天の中に包まれるのはとても気持ちのよい時間。影もまた、昼寝をする。
影の見る夢は月の満ち欠け。痩せたり太ったりを繰り返す。時間を巻き戻したり早送りしたりする。
心に浮かぶ昨日の月を戴いて、影は昨日の女王になりきる。後ろ姿に星が流れる。瞳に映す今日の月は、いささか重すぎて中身が全てこぼれそう。ああ、月はやっぱり液体だった。
「昨日の月がそろそろ発酵するよ」
と赤い瞳の動物。少し小首を傾げてみてと促す。
月の器から、光の飲み物がすじになり、こぼれる、
あ、と思った瞬間に鯉に呑み込まれた。わたしの影は影に過ぎないので、するすると鯉のヒゲの間から逃げ出す。せっかくいい夢を見ていたのに! 昼寝を邪魔されて、癇に障った影は、すごく大きく広がって、鯉の真下から追ってみせた。気づいた鯉が慌てて逃げ出すのを見て楽しむ影は、まあ、ちょっと意地が悪い。
と、そこでわたしの方が目を覚ます。影は瞬時にわたしの所へ連れ戻される。
「もう少し泳いでいたかった」
わたしも。そう思うけれど、いっしょに寝ていた猫がわたしの顔を踏みつけていったのだからしょうがないでしょう? アイツのカリカリをあとで少しくすねてやらなくちゃね。
わたしと影は体育座りをして、もう少しの間、ひなたぼっこを楽しむ。クリスマスローズはその紫を少し濃くして、太陽の傾きを教えてくれる。
もう少し、もう少しだけ春のひだまりを楽しもうか。モンシロチョウが踊りながらやって来る。影が指を伸ばしてその紋に触れると蝶は一瞬、その羽ばたきを止める。すぐに動き出すけれど、しばらくの間、その舞いはぎこちのないものになる。いぶかしみながら、やがて去ってゆく。
わたしはわたしの影の髪をなぜる。わたしの髪もなぜられたような気分になるのは気のせい。あるいは春の風のいたずら。
春の宵の寒さは木の影が教えてくれる。影が色を濃くして土の色と区別がつかなくなったら、さあ帰ろう。
花見に興じる酔客の、鼻の頭をはじくわたしの影をたしなめて、家路を急ぐ。
わたしの影は自分の存在感が極端に薄くなってゆくことを好まない。わたしだって同じ立場なら、そう思うだろう。それでも最近はライトアップやらぼんぼりやらで、夜桜を少しは楽しめるようになったとは、影の弁。
でもわたしは、夜桜よりも、猫と一緒に青空に広がるピンクを見るのが好き。あるいはクリスマスローズと戯れること。
……
リコリスガール
わたしの影の物語。連作の一編を掲載しました。リコリスガールというマガジンにまとめ、発表したいと考えています。インクボトルもその中に含まれます。
刺繍缶バッジは輪回しするリコリスガール。仕上がりが図案と大きく違う刺繍になって驚き呆れています(実際の図案は正面を向いていた)。キリコの「通りの神秘と憂愁」に引っ張られたのは間違いない。
リコリスガールのリコリスはリコリスキャンディから。わたしはリコリスキャンディが大好き。
バッグに合わせるとこのような感じになります。
表面
裏面
[サイズ]:φ54mm
[素 材]:刺繍糸、布、ブリキ、鉄
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