列車という箱をくぐり抜けるーアセアンそよかぜ『常夏の朝の大地を駆け抜けて ~早朝のタイ南イサーン鉄道~』評
こちらのエントリーは第1回透明批評会 11月度 アセアンそよかぜさんの『常夏の朝の大地を駆け抜けて ~早朝のタイ南イサーン鉄道~』の批評となります。
先に本編をお読みいただくことをお勧めします。
この小説を私は紀行小説として読みました。すぐに沢木耕太郎さんの深夜特急を思い浮かべました。アジアと列車というキーワードに導かれたのだろうと思います。深夜特急を読んだのは、たぶん20年ほど前。手元になく、内容をすっかり忘れていたので、電子書籍で一巻を購入。そうそう、この雑とした感じ、熱量。あ、列車じゃなくてバスじゃん!
インドに一人旅へ出かけたのは、これを読んだ前だったか、後だったか……。
そのことはさておき、小説の批評へと入ります。
読みはじめると、いくつかノッキングのようなものを起こします。その原因として、亀野さんが指摘されているように、時系列が入り乱れることがあげられます。また、
村田が不機嫌なままこの日の接待が終わった帰り際、村田が黒田を呼び止めて、掛けていためがねを拭きながら次の一言があったのだ。
この文章の後の一言が村田の言葉でないことで、困惑します(読み進めても、見当たらず、読者が類推し補足しなければいけません)。
他に、物語のなかでのブレとしては、
学生時代の軽いノリ
で就職していると書かれているものの、少し先の段落に
「タイの文化にずっと関わりたい」と考えた黒田
とあります。このように考えているのが学生時代ですので、決して学生の軽いノリではないと思います。
もし、このどちらもが真実であるとするならば、人物造形としてはおもしろいかもしれませんが、この点も読者を困惑させる要素になると思います。
これら、細かい点(ですが、読み手は大きく混乱する)をケアすることはとても大事なことだと思います(自分にも言い聞かせます)。
こういう点は、文章を書くこと、読むこと、意見を聞くことを繰り返すことで、改善されてゆく事柄だと考えます。
また、文章作法(さくほう)などの書籍を読むことも、上達のひとつの道筋だと思います。小説の文字の置かれる場所は、すべて意味があるものだと、私自身は考えていますので、そういった点も注意して書き進めるとよいと思います。
物語の中心、コラート行きのローカル列車の場面に移りましょう。
ここでも、細かい点になりますが、黒田と村田の単純な取り違えが起きています。
突然村田にとてつもないことを言われて村田の顔が引きつった。
似た名字から生まれるケアレスミスだと思われます。こういうミスについては、後ほど、書籍化の話題で触れますが、やはり可能な限り少ないことが望ましいでしょう。
列車の中でのやりとりで、黒田に仕事への情熱、もっといえば、タイへの情熱が蘇ってきます。車内に乗り込んでくる売り子に自然に声がかけられるようになる黒田。そういう気持ちの変化が列車という箱の中で起こってくることが、物語として楽しめました。移動手段にすぎない箱が、心の模様を塗り替える装置となること。
列車に乗る前の黒田と降りた後の黒田は、その内面が大きく変わっています。このことが、物語の大きな主題だと考えます。
小説、物語のあり方として、作中の人物だけでなく、読者にもそのような影響を与えられたら、それはとても嬉しいこと。無理に意図する必要はなく、結果的にそうなることを望みますが、このことが小説のひとつの役割なのではないかと私は考えます。もちろん、影響ゼロの小説はあるのか、と問われたら、それはないだろうと思うけれども。読まれない小説は、と考え、そうなると哲学的な命題になってしまうので、それはひとまず置いておきます。
批評に戻ります。
列車内の描写などから、タイという異国の空気、その風のようなものを感じられます。ただ、会話のやり取りが村田と黒田に限られているので、少し物足りなさも感じます。
現地の人との具体的な会話がいくつか入ることで、その場面が大きく印象に残るのではないでしょうか。
村田と黒田は現地の人と不自由なく会話が出来るようなので、どんどん交流してもらい、そこで、文化の違いのギャップなどを表現できたら物語に奥行きが出てくるのではないかと思います(あと、ガイヤーンは字面だけでもおいしそうですが、食べ物の様子や味が比喩で表現されたら、文章もきっと豊かになるでしょう)。
ふたりを乗せた列車は、あっという間にコラートに到着します。
「プリラムの町も過ぎたし、もう少しでコラートに到着か、気が付けばあっという
間だなあ」
村田がそう言うように、楽しい時間はまたたく間に過ぎるでしょう。しかし、果たして実際の6時間はこのように過ぎるでしょうか。朝も早いことから、村田が話しているにも関わらず、黒田が眠ってしまったりすることはなかったでしょうか。もし、そのような隙間の時間がないのだとすれば、黒田は6時間、喋りっぱなしということになります。
おそらくそうではないのではないか、と想像します。ふたりの時間には沈黙の時があり、トイレに行く時間があり、居眠りの時間がある……。そう考える方が自然です。全てを描写する必要はないと思いますが、隙間の時間を覗かせるような演出もあった方がよいと感じました。
実はその演出は、なされているのですが、もう少し効果的にできるのではないかと考えました。
その演出とは、挿入されている絵のことです。
朝日が描かれていることから、これは旅のはじまりに近い時間だと推測されます。その時から村田は話をしているので、どこか途切れる時に、別の街や風景の描写が挿入されたらいいのでは、と思うのです。
変わってゆく風景を(或いは同じような風景なのかもしれませんが)描写した絵が入ること。それに加えて、文章でも街や風景の様子が描かれると、より旅情が出てくるものと思います。
それを登場人物につぶやかせるのか、地の文で説明するのか、技量が問われてくるでしょう。
そういう細かいディテールの積み重ねも物語を豊かにする要素だと思います。
以上、細かい点への指摘もありましたが、ここで批評を閉じたいと思います。
ここからは、問いかけのあった「書籍化」について書こうと思います。書籍、電子書籍に関しては、自費出版という形であれば、誰にでも可能なことだと思います。私自身もダウンロード販売をしたり、手製本を作ったりしています。有料noteをこの中に含めてもよいと考えます。同人誌として、書籍をある程度のロット数つくることも可能です。ですので、現時点ですでに可能なものです、とお伝えします(すぐに電子書籍をつくりたい、というような要望であるのならば、私がお仕事として引き受けることはできます。でも、そういうことじゃないですよね?)。
商業流通については、プレ議題で多くのコメントが寄せられました。ヒントになることがたくさんあると思うので、今一度目を通していただければと思います。
それに加えて、自費と商業との出版に際しての大きな差としては、編集者の存在の有無だと思います。先に書いたケアレスミスのところはここに繋がるのですが、第三者が介在することで、それらの誤植や時系列の乱れなどは解消されます(とはいえ、そのミスで門前払いにあうことが多いと思います)。
noteは多くの出版社とパートナーシップを結んでいるので、noteへの投稿で多くの読者を魅了できる文章ができあがれば、それを本にしたい編集の方も出てくるのだろうと思います。
ただ、多くの目をくぐり抜けるという信頼度では、やっぱり何らかの賞をとることも大事なんじゃないかなあ、とは思います。
賞に応募する場合、その多くはパッケージしたものを送ります。送った後に修正などのアップデートはできません。完成原稿を送るということは、そのまま商業誌に掲載されてよいほどの完成度でないといけないということです。
緊張感があり、また本文を客観視しなくてはいけません。そういうことの訓練のためにも、賞への応募をお勧めします。
それを踏まえた上ではありますが、多少の瑕疵はあったとしても、それを超えて抗いがたい魅力を持つ本文があれば、いつか商業書籍化はできると思います。その魅力的な本文というやつが、一番難儀なのですが。
というわけで、やっぱり物を書く以上は、実力をつけて正当に評価されることが必要だと思います。ぜひ、チャレンジしてみてください!