最後の子どもは誰?ー成田くうこう『最後の子ども』評
こちらのエントリーは
第1回透明批評会 10月度 成田 くうこうさんの『最後の子ども』の批評となります。
先に本編をお読みいただくことをお勧めします。
この小説は三層のレイヤーからなる物語と読みました。
1.暗い部屋の中で、死んでいる男の話
2.「とめきつ」および「とめきつ」のことを語る老人の話
3.チャイムで起こされる男(とおぼしき人)の話
3は1とリンクします。
暗い部屋の中で、死んだはずの男がそう語り始めた。
ですが、ここでは、別のレイヤーとして捕らえることにして読み進めていきます。
暗い部屋の中で語る男は、雪山での話を語ります。
死線を彷徨う中で、幻聴や幻覚を体験します。その中で、男が雪崩に巻き込まれた山は、何人もの「とめきつ」が捨てられ死んだ場所だと知ります。言うまでもないことですが、「とめきつ」は「止子」などのように、これで生むのは最後である子ども、という名前です。
3の人物は、写真が挿入されていることから現代の(おそらく)男と推定されます。
「…...お前で最後だよ」
知らない人物に起こされることで、3の男は命が救われます。おそらくここで、1の人物と同一となるでしょうが、結論はもう少し先に延ばします。
この場面で、「とめきつ」もひとり助け出される描写がされます。
そう言ってその人は、老人の顔で優しく笑い、私の頭にそっと大きく温かな手を置きました。
ここで、1,2,3の人物が、皆リンクしました。
これで、全員の生き残りが確定します。
それでは、最後の子どもとは誰でしょうか。
男は子どものようではありません。そうであれば、もしかしたら、2の「とめきつ」が生き残り、その先祖と似たような体験をして、どちらも生き残る物語であるかもしれません。
話を少し戻します。
1の人物は3の人物とリンクすると書きました。しかし、1は決定的に物語の中に存在します。雪山にいるのは彼です。3は
間もなく胎児のようにうずくまっている私自身の全体が見えました。
と1の様子を乖離して客観的に見ることができています。
3は作者にもっとも近く(これは、憶測があまりに過ぎると思うのですが、自分の拙い推理も残しておきたいのであえて書き残します)、例えば、効き過ぎたクーラーの中で眠ってしまった時に夢を見た作者自身を投影していると感じます。
3の男の夢の中で1の男が遭難する(3の肉体的状況を反映している)。そんな夢の中で存在する男は、過去の時間と交錯する。そこにあらわれるのは2の「とめきつ」のうちの助けられた誰かで、最後の子どもであり、その子孫が1の男である。
1の男は羆や深海魚になる描写もあります。輪廻も考えられます。そのように考えた場合は、2→1→3の輪廻転生の話とも読めるようになります。
誰かの記憶と私の記憶が混ざり合って、それが走馬灯のようにスライドし始めると、私はいつの間にかまた山の中でボォウボォウと鳴く梟の声の波と一体になり、雲の上を飛び交う粒子の群れと交わり、空の奥で輝く三日月の下をもの凄い速度で飛び回っていました。
その後に
時間が溶けて、距離が消えて、無音の暗闇の中で銀色の輪廻が回りだして、気づけば私は巨大な羆となり、
とあることから、死→輪廻転生、という流れを見ることができます。
タイトルである「最後のこども」は少なくとも2つの意味を持ち、場合によっては3つとも捉えられるでしょう。
1.生き残った「とめきつ」
2.その子孫である部屋にいる男
3.血の繋がりではなく、魂の連鎖としての男
このように3をキーワードとして、この物語を読み解いてきました。しかし、気になる描写があります。
何一つ状況が理解できないままに私がその場で立ち尽くしていると、遠くで誰かが叫ぶ声がして、暗く淀んだ視界の先から、忙しなく動く光が四つ現れました。
4、という数字が現れます。実際オレンジ色をした服を着た四人組のおそらくレスキュー隊が登場するのです。深い意味はないかもしれませんが、小説において、意味なく配置される言葉はひとつもないはずなので、これはどういう意図なのか知りたく思います。レスキューは四人一組が鉄則なのか、死を連想させるものなのか、他に隠れた人物がいるものなのか。
1の男は臨死体験もしています。そこでチャイムを鳴らす男は誰なのか。
そうですね、1もしくは3の男は最後ではなく、続きの男もいるようです。
「…...お前で最後だよ」
この言葉が、単純にこの雪崩で助けられる最後の男と考えるならば、そういう展開も可能です。1の男に身寄りがないという描写が気になりますが、この出来事が世界線の分水嶺であれば、違う未来を描くことも出来るでしょう。
映画「インセプション」的世界観にタイムリープも加わっているのではないですか? 純文学にそれらの要素を取り込んで、十分、長編に持ち込むことの出来る構成だと、私は感じます。
私の批評は憶測や希望が多くを占め、あまりお役に立たないかもしれません。それでも、新しくテクニカルな長編が生まれそうな予感で、ついつい書いてしまいました。人物の取り違えなどありましたら、ご指摘下さい。
ここからは、批評からすこし外れます。亀野さんの書かれていた、1文の長さについてです。私自身は、もっと長くてもいいし、できれば段落も少ない方がいい、と考えたりします。noteをはじめ、web媒体(スマートフォン閲覧)では、冗長的な文章が忌避されているように思います。私も、少しそれを意識して書くところがあります。ただ、もともとドストエフスキーや埴谷雄高の文体が好みなので、段落が多いことでノッキングが発生します。格闘から逃れられるという思いと、いや、拘泥し、うねりに取り込まれたいという思いが相反します。文節、段落、文面、それ全体の言葉の置き方のレイアウトについてなど、いつか、web時代の文体についても議論できるような場があればと願います。それは、批評会のプレ投稿にも繋がるものとなります。
あと、書くことに魅入られたものは、どうやっても書くしかないので、今は離れる人も、何かしらで、必ず書くことに引き戻されると思います。そしてその時に、その人にたくさんの感情を引き出させるためにも、私自身は、やめず書き続けたいと思います。失敗は多いでしょう、嘲笑されるかもしれない。それでも、真剣に書くことを続けること。役に立たないかもしれないけれど、灯台として立って待っていますね。その灯火が、ほら、とんだ火傷になるかもしれないし。
成田さんの次回作も期待しています。長編、きっといけますよ。