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【戦争回顧録】12. 入隊からシベリア帰りのとぎれとぎれの思い出~TM氏の自分史を転記しました

実家の畑へ向かう途中にある公園近くのお宅の方で、お話しすることは滅多になかったです。とても落ち着いた物静かな印象の方でした。青春時代の壮絶な体験を書き残してくださったことに感謝します。



シベリア帰りの老兵のたわごと 平成4年12月20日

 昭和15年 11月30日
 歓呼の声に送られて、故郷の稲枝を出発した。
現役証書は、北支第1893部隊とあって集合場所は、東京都神田電気学校で健康診断、及び体力を受けた五日間、神田の朝日旅館に泊まった。
 12月6日 
東京芝浦港より乗船、出発する。「山代丸」
 12月12日
北支ターク港に到着
 12月17日
北支西山省太原着き北支派遣独立工兵18連隊 1893部隊につく
 昭和16年 6月
県地区の戦闘に参加する
 昭和17年 3月1日
関東軍特別大演習要員にて参加
 8月25日
満支国境通過する
 8月29日
賓江省ハルピンに着く
 9月1日
ハルピンを出発し東安道路作戦が開始される
 昭和20年 8月9日
「午前9時」ソ連兵が来襲する
 9月5日
牡丹江にてソ連兵に降伏し収容所に入る
 9月10日
アルヨーム第6炭鉱に着いて黒パン300gの生活が始まる


黒パンの味

 間もなく監督が頭に電池を付けて、ノルマの算定にやってくる。続いてブリキ屋がドリルで薬穴を開ける。入れ替えに火薬を詰める。私達3人は支杭に退避する。
ドカン、ガサッ、と石炭の崩れ落ちる音、煙がもうもうとたちこめる。すぐにダワイの声が後から追いかけてくる。坑道一杯に石炭が崩れてくる。馬鹿でかいラパートでこの石炭をコンベヤーに投げ入れなければならない。機械的な動きだ。無駄口をきかず気力も無く、体力も消耗し、ラパートに半分ほど石炭を入れ重々しくコンベヤーに投げ入れる。同じ動作の連続、コンベヤーに石炭が乗らず空回りしていれば、ダワイが支杭から怒鳴ってくる。考える事もなく、ゆれるカンテラの火に目をやるだけ、ザッザッと天井から思い出した様に粉炭が降りてくる。落盤の恐ろしさも、軍隊当時よりも知り過ぎている。しかし今、落盤があっても、とうてい素早く逃げられないだろう。8時間のノルマを強制され「働かざる者、食うべからず」と言われても、私達には到底出来る量でもなければ体力もない。全力を尽くして、精根尽くして、ラパートに一杯の石炭をすくっても、明日も明後日も働ける事は出来ない。70kgあった私も今は恐らく45kg程だろう。
※ダワイ ロシア語の「早く」
※ラパート 文面から鋤や鍬かと思いましたが不明 

 長い思い8時間を終えて、やっとの事でフラフラの体でラゲールに帰ると、一番楽しい食事の配給だ。300gの黒パンとキンカンの様なカルトースカの入ったスープ(と言っても名ばかりで塩汁だ)、これが労働者の代償だ。両手の中にすっぽり入ってしまう黒パン、水気のあるすっぱい味、うす黒い色、けっこうおいしい。ぱくぱく食べれば4,5回で終るこの黒パンも勿体なくて、そんな食べ方はできない。スープをすすってチビリと黒パンをかじる。ラゲールの生活で、この一時にすべてをかけている。何の望みもなく唯、生きて故郷に帰れる日を今日か明日かと、それだけが暗やみの地底に薄暗いカンテラの火のごとく一抹の希望です。その為には、この重労働に耐え、黒パンの味をじっくりとかみしめていかねばならない。
 終戦後2年は過ぎただろう。内地に思いをよせても私の頭に浮かぶのは、昭和15年に歓呼と旗の波に送られた故郷の姿だけである。玄界灘の荒波を乗り越えてより、北、中支と転戦、満州、シベリアと年と共に移り変わり、どん底まで来た私には故郷の姿しかない。ラゲールで日本語の読物と言えば一語一句、誠らしく書いた日本新聞だけである。一週間に一度10人に1枚の割りで配給がある。都会から田舎に至るまで、爆撃に焼け野原となった事が次々と報じられている。住む家もなく、食べる物もなく、着る物もなく等々、内地状況を報じている。
「そんな事があるはずがない。そんな事が・・・」
自分に言い聞かせていても、三三五五、人が集まればひそひそと話している。
 米国の支配下になり、敗戦下の内地ではどんな事だろう、と頭の中を右往左往する。赤旗の歌、インターナショナルの歌が今も盛んに歌われている。私も仲間入りをせねば又、カピタンが廻ってくる。私はそっと裏に出て内地に通じているであろう、この空を淋しく見上げ「誰か故郷を思わざる」この歌をぼそぼそと口ずさむのを慰めとしている。
※カピタン ポルトガル語のキャプテン
 いつまで続くか重労働の強制と黒パンの味。明日も又暗黒の闇が待っている。幾十、幾百黒パンをかみしめれば、故郷に帰れる日が訪れるだろう。

 昭和23年 10月20日
復員のため、ナホトカに着く
 10月25日
ナホトカ港から帰還船にのり、一路舞鶴港に向かって南下している。船上から霧に煙る沿海州を眺めながら、あの続く山の彼方には、この帰還船に乗り込む日を夢つつ倒れていった幾万の戦友が眠っているのだと思い浮かべながら、君達を彼方の山に残したまま今帰る私達を許してくれと心の中で手を合わせながら・・・
 10月28日
祖国舞鶴平桟橋に上陸

 10月30日
午前11時30分京都駅到着。午後3時頃我が家に帰ってみると、すでに両親はこの世にはいない。この八カ年は長かった。 


なにげにお見かけしていた姿を思い返し、昭和15年から昭和23年の8年もの間、祖国を離れ、想像を絶する日々から解放され、ようやく戻れたにも関わらず、ご両親との再会が叶わなかった心の内を思いますと、言い表せないくらいの哀しみと喪失感で苦しくなりました。

貴重なお時間、お立ち寄り、読んでくださってありがとうございました。

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