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ひとりアメリカ縦断紀②(慶應ニューヨーク学院編)


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慶應NY校まで巽先生に会いに行く

ボストンのお次はニューヨーク、と普通の人は行くだろうが、僕には一つ幸運があった。それはゼミでお世話になり、現在は名誉教授になられた巽孝之先生が、ちょうどホワイトプレーンズにある慶應ニューヨーク学院の学院長をしているということであった。やや外れにあり車がないと行けない場所ではあるが、ボストンからニューヨークへ南下する際には途中にあり非常に好都合であった。

巽先生とは一年だけしかキャンパスでお世話になる機会はなかったが、最初のゼミ面接というのを僕は非常によく覚えている。当時人気あった巽ゼミに入れてもらうアピールのつもりで、僕はゼミ面接でかつて自分が書いたアメリカに関する駄文エッセイをいきなりその場で手渡したのだ(ダラダラと書いて150ページはあった)。

それからというものの、果たしてこんなに忙しい大先生が読んでくれるのか、下手なことを書いてしまってはないだろうか、これがきっかけで嫌われないだろうか、と心配でしょうがなかった。。。しかしながら巽先生はわずか1週間後のゼミ歓迎会で「この中に Yutaro はいるかな。とっても面白かった」とわざわざ皆んなの前で褒めてくれたのだった。そんな巽先生と慶應の学生生活を締め括る今回の卒業旅行で再会できるというのは、僕にとってはこれほどない幸運であった。

ボストンのSouth Stationを鉄道で発ち、およそ3時間ほどしてスタンフォードという東海岸沿いの駅についた。そこからUberを呼び寄せ、30分くらいで慶應ニューヨークへついた。学院は慶應という雰囲気にも、ニューヨークという雰囲気にも似つかわしくない田舎町にあった。

大学のキャンパスのようになだらかな土地に広がるニューヨーク学院であったが、どこが入り口であるのかもわからず、5, 6分ほど学院のキャンパスを彷徨った。それにしても地球の反対側に慶應がこれほどまで大きな施設を構えているというのは驚きであった。高校でしかないというのが惜しいほどであった。


しばらくして玄関らしきところを見つけ向かうと、そこに巽先生はセーター姿で立っていた。3ヶ月ぶりに会う巽先生は「よく来たね」と言ってにこりと笑ってくれた。

今回はご好意に甘えて慶應ニューヨークに泊まらせてもらうことになっていた。先生は普段から学院内に暮らしているとのことだったが、その部屋の中には入れ子状にもう一つ部屋があり、そこが今回の自分の部屋だった。バスルームまで個別で完備されており、この辺りはさすがアメリカの施設であった。その後は、巽先生と小谷先生に連れられ、ジープに乗ってホワイトプレーンズにあるスーパーを3軒ほど巡った。途中、巽先生は「そういや、君の書いた本はちゃんと別荘に保管してあるよ」と言ってくれた。保管してくれていることもさることながら、駄文のエッセイを「本」と呼んでくれたことに嬉しさを感じた。その晩は小谷先生が振る舞ってくれた手料理とワインを心ゆくまで愉しんだ。

翌日は朝から、慶應ニューヨーク学院内を先生に案内してもらった。学院の周りには噴水のある池を囲むように道が走っており、それは卒業前にPythonに関する書籍を借りに訪れたSFCを彷彿とさせた。慶應の一貫校生に共通して言えることだが、ここの学生も社交的によく訓練されていると感じた。勉強している学生を食堂で見かけたが、校長と歩いてると不自然にならぬ程度にこちらを見て、先生が立ったと見えば、ニコニコと会釈するような学生であった。

ニューヨークへ発つ直前、先生ご夫妻と慶應ニューヨークの外へ出て向かいにあるマンハッタンビルカレッジを訪れた。1時間ほどかけてぐるっと周り、マンハッタンビルカレッジから慶應ニューヨークを見下ろした。暮なずむ夕日が学院を赤く染め、学生たちがサッカーに興じているのが見えた。その夕暮れの光景はアメリカ旅行を通して最も印象的なシーンであった。


夜6時過ぎであったが、帰りは先生ご夫妻に車でホワイトプレーンズ駅まで見送ってもらった。駅で先生とどのホームか迷っていると、通りがかりの若い黒人が「こっちこっち」と手を招いてホームまで導いてくれた。ホームに上がり、駅で待っていると今度は知らない女性がまた「これはマンハッタンに行く電車?」と尋ねてきた。気づけばこの辺りはボストンとは違う国民性だと感じた。これから向かうのが世界の首都であるという予感を感じながら、このハーレム線がニューヨークに続いているという事実に全身で高揚感を感じていた。


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