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西遊記

平岩弓枝先生の【西遊記】を図書館で初めて借りて読んだのは、もう10年以上前の話だ。

地元の図書館で貸し出しが始まった際は人気のあまり貸し出し中の状態が長く続いてなかなか借りる事が出来ず、待ちに待ってようやっとワタクシに順番が廻った時は小躍りした。在所の図書館に蔵書として文庫版はあるにはあったのだが、いつも上・中・下刊の内どれかが借りられていて中々手が出なかったのである。
ハードカバー版が別の図書館にあると聞き、取り置きを御願いして受け取ってきた。

子供の頃から【西遊記】は好きな物語のひとつで、これまでに幾冊かの関連書籍を購入し、その何倍にも渡る関連書籍を図書館で借りて読んだ。

歳を取った所為なのかどうかは判らないが、この頃は下手に大幅なアレンジを加えた【西遊記】よりも、矢張り何処かしら原典に忠実な【西遊記】の方が読んでて面白い。
残虐な描写や冗長性と言った、現代の若い読者には退屈にすら感じられる描写も、それが過去に別の書籍で読んで知っている内容であるに関わらず、何故か見る度にとても胸が躍るのだ。孫悟空、猪八戒、沙悟浄、玄奘三蔵法師、白龍三太子の5人の主人公を始め、登場人物が非常に魅力的な所為だろう。

ワタクシが最初に購入した【西遊記】関連の書物は、高名な画家であった小杉未醒こすぎ みせい先生(1881生〜1964歿。1929年に画号を【放庵ほうあん】に改名)が著した【新訳絵本西遊記】では無かったかと記憶している。こちらは原典に忠実に記されながらも幾らかの簡略化があり、初めて【西遊記】に触れる方にも読み易い内容になっているのが特徴だ。
この簡略化についての小杉先生の述懐が面白い。

(前略)初めは文句の方は誰れか専門の人に書いて貰おうと考えたが、いろいろ不便の事があって、自分で書く事となったので、甚だ蕪雑なものにしてしまった、むつしく云えば限りが無いし自分の力に及ばぬから、家の者に晩餐後物語るような調子で書いた。無論省略はある、この省略は一体にわたっての省略では無い、自分に割り合いに面白く感ぜられぬ局所を省略したのである。(【自序】より)

(前略)三蔵の労を称し、過ぐる処の諸王国の関文を検し仏食を与え、やがて五千四十八巻の経巻を取り出さしめて渡された。う云えば簡単であるが、本文には種々いろいろの手数ある装飾あり、種々の理窟をつけた小話がある、要するに仏家の勿体をつけんとしたものであるから、訳筆は大いに省略を用いる。(五十三話【完結】より)

小杉先生の【新訳絵本西遊記】は明治43年1月に世に出た。以来、令和に至るまで【西遊記】は様々な作家によって翻案されて来た。平岩弓枝先生の【西遊記】は、その中でワタクシが小杉先生による【新訳絵本西遊記】と共に、最も好ましく思った作品である。

作中の孫悟空の描かれ方が先ず、良い。
大抵の作品では、孫悟空のイメージが【粗暴だが義理人情に溢れる任侠のような好漢】であるのに対し、平岩版【西遊記】では純真無垢な童子のようである。三蔵法師との掛け合いも師弟というよりは親子のようで実に微笑ましい。そして、平岩版【西遊記】はそんな童子のような孫悟空が真の悟りへと近づく過程を描いた、成長物語的な作品と評する事も出来る。

脇を固める妖怪達のエピソードも実に女性らしい視点で優しく描かれていて、「これは!」と唸らされるものがあった。また特筆すべき点として、全体に【妖怪より人間の方が本質的に悪である】と言う設定が根底にある事を強調せねばならない。妖怪≒悪と短絡的に連想しがちな方々には極めて新鮮に映る事だろう。
…これ以上は、ネタバレ回避の為口をつぐむ事にする。

一方、同時期にワタクシは児童文学と言うカタチでふたつの【西遊記】に触れている。
ひとつは渡辺仙州先生の手によるもの。
もうひとつは斉藤洋先生の手によるものである。
いずれも手にとって読んでみたが…著者のお二方には申し訳ないのだが、平岩版【西遊記】に比べると何れもほんの少しだけ見劣りがする。
児童文学だから…と言う訳ではない。アレンジがきつ過ぎるのだ。

渡辺版の【西遊記】は大筋では概ね原典に忠実なのだが、観世音菩薩や釈迦如来(釈迦牟尼佛)の態度が聊か尊大過ぎる帰来がある。
特に観世音菩薩のキャラクターに至っては「これが幾多もの変幻を顕して衆生を慈悲でお救いになる観音様だろうか」と思う程高慢且つ冷徹な雰囲気で、慈愛に溢れる巷間の観世音菩薩のイメージが(ある意味)理想の女性像であるワタクシは大いにガッカリさせられたのだった。
また話の簡略の仕方も、仏教側の分が悪くなりそうなエピソード(一例を挙げれば…観世音菩薩の住まいから逃亡した金魚が化けた霊感大王のエピソード)がごっそりと削られていて、飽くまで三蔵法師一行の艱難辛苦の必要性ばかりを強調している気がした。
渡辺版【西遊記】では、三蔵法師は原典以上に虚弱な存在として描かれている。妖怪に捕らえられるのは兎も角、病に倒れて弱気になったり、思わぬ足止めを食ってめそめそしたり…と俗人的な面が殊更強調されている印象がある。
但し、渡辺版【西遊記】には評価すべき点もまた数多くあって、その中でも一番ポイントが高いのが【猪八戒が黒豚の妖怪として描かれている】【沙悟浄が黒髭を蓄えた屈強な巨漢として描かれている】事である。これは原典の描写に忠実に従ったポイントであるが、何故か日本の【西遊記】作品では無視されがちなポイントでもある(特に、日本では沙悟浄の出自が水怪である事からの連想で河童に似た妖怪として描写する傾向があるので、尚更である)。古代中国の文化に造詣が深い渡辺先生にとっては、恐らく前述の猪八戒と沙悟浄の容姿の描写は絶対に譲れない要素であったに違いない。

一方の斉藤版【西遊記】であるが、良くも悪くもかなり大胆なアレンジが加えられている。
斉藤版【西遊記】の孫悟空は【仏教や道教のあり方に常に穿った眼差しを向け続ける、猜疑心の強いダーティーヒーロー】として描かれている。
道中での妖怪との戦いの度に「これは天界の差し金ではなかろうか」と疑心暗鬼になったり(原典でもそうなのだが、斉藤版【西遊記】の孫悟空は聊か度が過ぎる)、対峙する妖怪に「お前等が生きてて一番不愉快なのは他でもない、天界の連中さ。でも自分達の手を汚したくないものだから、俺が此処に来るように計略を以て差し向けたのだ」等と平気で言う。
釈迦如来や観世音菩薩の事も「釈迦の野郎(または「釈迦の親爺」)」「観世音の奴」と呼び捨てだ。況して道教の神々に対する扱いと来たら…(これ以上は言わぬが華)。
このまま、孫悟空が仏教・道教について猜疑心を抱いて取経の旅を続けたら、話の終盤で釈迦如来に喧嘩でも吹っかけるのではないか?と言う気がしてならない。SFアレンジの【西遊記】に置いて、釈迦如来を始めとする神仏を邪悪な存在(飽くまで人間側からの主観であるが)に仕立て上げるのは常套手段だが、まさか児童文学でその片鱗を見る事になろうとは。
また、天界に属する者達…特に端神が三蔵法師をかなり無碍に扱っている描写もある。一例を挙げると、猪八戒の事は【天蓬元帥てんぽうげんすい】沙悟浄の事は【捲簾大将けんれんたいしょう】と天界の職名で呼ぶ天兵達が、三蔵法師の事は【坊主】呼ばわりである。幾ら何でも酷過ぎる。

因みに斉藤版【西遊記】には、取経が終わった後の孫悟空の暮らしを描いた【西遊後記】と言う続編がある。こちらも、良くも悪くも斬新な切り口で描かれている事を添えよう(特に猪八戒が故郷である烏斯蔵国うすぞうこくに戻り、入り婿として契りを結んだ高家の令嬢・翠蘭すいらんと再び仲睦まじく暮らしている描写は他の【西遊記】作品には無い素晴らしいもので、それだけに良い意味で心を鷲掴みにされた事を白状する)。

話を平岩版【西遊記】に戻すと、先にも述べた通り平岩先生の【西遊記】は話のアレンジひとつ取っても女性らしい肌理きめの細やかさがあって、読んでて「成る程、こう言う解釈もありか」と思ってしまう描写が随所にある。こうした手腕は代表作【御宿かわせみ】シリーズなど、多数のヒット作品で培われた優れた手腕の賜物でもあるのだろうか。

興味がある方は是非平岩版【西遊記】を手にとって欲しい。

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