見出し画像

サマンサ・ジルズのこと

何度もこの場でカムアウトしているが、ワタクシはユーロビートが大好きだ。

所謂【ユーロビート】と一般的に認識されている音楽の歌い手には、そのキャリアが極めて早くに花咲いた例が幾つか存在する。

例えば、音楽プロデューサーの父とスタイリストの母との間に生まれ、8歳の時に芸能界入りを果たし、シンガーとしてはポニーキャニオンからシングル9枚・アルバム4枚・コンピレーション1枚を発表、いずれもオリコンチャートの上位に送り込むなど一定の成功を収め、現在は女優として活躍しているアリッサ・ミラノ然り。

17歳の若さでアーケードゲーム『pop'n music』シリーズの公募企画のボーカル部門に「NU-KO」名義で参加、以降も『pop'n music』を中心としたBEMANIシリーズに歌唱協力を行い、同時に同人音楽『ユーロバカ一代』等にも参加…と言った歌手活動を行う傍らで、声優養成所P's Voice Artist Schoolに第二期生として通い、2018年に声優デビューも果たし、様々な当たり役で知られる佐伯伊織さん然り。
(補足。佐伯伊織さんは「NU-KO」名義での活動前に14歳の若さで「IORI」名義で歌手活動を行われていた、との事。情報を提供して下さった音夢パンダさん、ありがとうございます)

今回の記事で紹介するサマンサ・ジルズもそんな【若くして開花した才能】のひとりだ。

サマンサは1971年ベルギーのアントワープ生まれ。10歳の時にE.C.I.コンテストで優勝を果たし、その後も数々のコンテストで勝ちを得続けた。そして12歳の年にINFINITY RECORDSとアーティスト契約を結び、『Let me feel it』でデビュー。その後も『Music is my thing』『S.T.O.P.』『Time』等次々とヒットを飛ばし、『Hold me』に至っては日本のアイドルグループがカバーして話題になった。アルバムも4枚出ている。

そんなサマンサだったが、1991年に音楽活動をストップする事になる。家庭の事情が背景にあったようだ。この時、サマンサ20歳。

そのまま彼女が引退してしまっていたら、ワタクシはサマンサの歌声を生涯知る事は無かったろう。だが、一時は音楽の世界から離れたサマンサに「もう一度唄ってみないか」と声をかけた人物が居た。欧州クラブシーンのゴッドファーザーとの呼び声高いシンガーにしてプロデューサー、デイヴ・ロジャースその人である。サマンサが音楽の世界から離れて3年後の事だった。

デイヴの助力を得て新たな歌作りに取り掛かったサマンサは、1995年に『Here come the night』でカムバックを果たした。その後も『Don't tell me lies』『A look in my heart』等様々な曲を世に送り出し(個人的にはそれらの中でも『All my life』が好きである)アルバム【Hopes and dreams】【Destiny】の2枚をAvex Traxからリリースするに至った。

そして【Destiny】のリリースで、サマンサの"ユーロビートシンガーとして"の活動は終わりを告げる。
その後、サマンサはなんとジャズシンガーに転向。現在もジャズの世界で活躍しているとの事である。カタチは違えど、音楽の道を進んで居るようで喜ばしい限りだ。
(そう言えば【Hopes and dreams】に収録されている『Heartbreak』と言う一曲は、他の収録曲とは一線を画すしっとりとしたスローテンポの歌だった。あの曲を鑑みるに、元々ジャズの素養があったのかも知れない)

この記事を書くに至った切っ掛けは、ディスコブームに関するとあるコラムを偶然見掛けて、その中でサマンサがド豪く過小評価されているのを見て居ても立っても居られなくなったからだった。そのコラムではサマンサを「ちょっとばかり他人より容姿と歌声が優れていたがばかりに若くして持ち上げられ、その後、時代が彼女を必要としなくなったからサマンサは消えた」と、かなり辛辣に評していた。
これを見た時のワタクシの激昂たるや、言語化が困難である。そりゃそうだ、好きなアーティストを根拠も無くケチョンケチョンに貶されて穏やかで居られる程ワタクシは聖人君子では無いのである。大人げないと笑うならば大いに笑って頂きたい。

海外のジャズの音源はなかなか入手が難しいが、サマンサが唄うジャズをいつか聴いてみたいものである。きっとユーロビートとは違った魅力がそこにはあるだろう。

いいなと思ったら応援しよう!