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【掌編】赤い湖

海沿いの切り立った断崖に作られた、頑丈なシェルター。さる大国が核爆弾の扱いを誤り世界を半壊させた空前絶後の大災害…【メギドの日】と呼ばれている…が起こる前は灯台として運用される事を前提に建築されていたらしい。だが今は、壁を厚くし、放射能に汚染された外気が濫りに吹き込まないよう空調設備が整えられ、半ば要塞化している。

そのシェルターの目の前には、血のように真っ赤な水を湛えた大きな湖が広がっていた。
嘗ては広大な干潟と豊かな生態系を擁した海の一部だったらしい。だが【メギドの日】以前、大規模な干拓の対象となり、堰が築かれ外海との潮の行き来が途絶え、干潟の生き物は全て滅びた。そして【メギドの日】以降、今は砂に半ば埋もれ、牡蠣かきや珊瑚にびっしり集られて"天然の崖"となってしまった堰に隔てられて、外海から完全に切り離されてしまった嘗ての干潟は、紅藻類しか繁殖出来ない広大な塩水湖となってしまったのである。

時折、その赤い湖の岸辺から黒い煙のようなものが湧き上がるのが見える。勿論煙では無い。塩水を好むミギワバエの仲間が、岸を黒く染める程大繁殖しているのだ。

驚いた事に、普通の水棲動物には絶対に棲む事が出来ないこの死の湖に息づく生き物はミギワバエだけでは無いらしい。
何処からか「シュー」と唸り声がし、嘴の先から尾の端まで1.6メートルはありそうな水鳥が数羽、赤い水を掻き分け泳いで来た。首が長く、平たい嘴は僅かに先端が上向きに反っている。嘴の基部…つまり鼻腔が開く辺りに瘤のような突起がある。そしてその水鳥の羽毛は、まるで赤い湖の水に染まったかのように、オレンジを帯びた薄赤色を呈していた。

シェルターの最上階の窓から、高性能の望遠鏡でその水鳥達を眺めていた青年は、傍らに置いてあったタブレットの液晶画面にそっと手を触れた。タブレットの画面が、とある水鳥の写真を表示する。何でも【メギドの日】以前の地球上の生物を記録した膨大なデータの中に、この画像があったらしい。
その写真の水鳥は、今、眼前で赤い湖の水を口に含み、水だけを器用に吐き出すあの水鳥にそっくりだった。だが、微妙に違うところもある。例えば目の前に居るあの薄赤色の水鳥は、写真の水鳥より相対的に首と脚が長く胴体が短い。そして写真の中の水鳥は、眼前の水鳥とは似ても似つかぬ、真っ白な羽毛を有していた。

タブレットが表示している水鳥の写真が、眼前に居るあの薄赤色の水鳥の祖先である事は多分論を待たないだろう。
あの水鳥の祖先が、どうやってこの地に辿り着いたか、青年には判らない。ただ【メギドの日】を生き延びあの湖に至った彼等は長い年月をかけてあの死の湖に適応し、湖に豊富に産する紅藻類やミギワバエを餌に生きているらしい。
この湖なら彼等の安全は保障されたも同然だろう。何しろこの場所にはあの水鳥とミギワバエ、紅藻類、そしてシェルターに閉じ籠もり赤い湖を定期観察する青年を除けば、他に誰も居ないのだから。
あの水鳥とミギワバエ以外に、赤い湖の水を口に含む生き物は居ない。野の獣があの水を飲めば、恐らくはあまりの塩からさに、堪らずげぇっと吐き出してしまう事だろう。

青年はふと、望遠鏡のレンズから視線を反らした。
記憶に間違いが無ければ、今日辺りに遠くの大きなシェルターから食糧の支給がある筈だ。残り僅かになった食糧の備蓄を食べ切ってしまおう、今日の昼餉は何を作ろうか…青年は取り止めも無く思いながら階段を降りた。

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