【掌編】居住区
「さぁ、行こうか」
僕は荷物を詰め込んだ大きなキャリーケースに手をかけ、まだマンションの中を名残惜しげに眺める恋人のナオミを振り返った。
ナオミの眼差しは哀しげだった。無理もない。元々このマンションのひと棟は、ナオミの両親が購入したものだからだ。彼女は生まれた時から今日に至るまで、ずっとこのマンションを拠点に生活して来た。父母が亡くなり、僕と同棲するようになった今日に至るまで。
僕とナオミが、このマンションを離れる事にしたのは理由がある。
嘗てユーラシアの何処かで起きた核爆弾の暴発事故…通称【メギドの日】以来、放射能に汚染され荒廃の一途を辿るこの街が閉鎖される事になったのだ。
【メギドの日】を生き延びた人々は、近頃放射能の汚染が比較的軽い地域に作られた居住区に住む事になるらしい。
過日、その【居住区】を視察する機会があったのだが、この荒廃した時代に良くぞ…と思う位に快適な住居が用意されていた。こじんまりとはしているが庭つきの一軒家が一世帯毎に貸与され、許可さえ取れば庭先でペットを飼う事さえ出来ると言う。
何より凄まじかったのはその居住区が巨大なドーム…いや、寧ろ【要塞】と呼ぶべきか…の中に建設されている事だった。放射能そのものから住民を守るのは勿論の事、放射能汚染により凶暴な怪物と化した野生動物から住民の命を護る為にそうしたのだと言う。別な土地にある、同じような居住区を内包したドームに移動するには武装したジープやバイクを用いるしか方法は無く、ジープやバイクを所持するのは限られた人間の特権のようになっている。最も僕とナオミは遠方に友人が居る訳でもなかったから、ドームの外に出られない事に然程不満は無かった。
暫く無言で立ち竦んでいたナオミが、漸く振り向いて荷物を詰めたキャリーケースに手をかけた。
「行きましょう、アブラハム」
「ああ。もうそろそろ、迎えの車が来る筈だ」
僕とナオミは防護服のチャックを締め、安全靴を履き、ヘルメットを被る。そして僕達は、今まで住んで居たマンションを後にした。どうやら僕達がこのマンションの最後の住民だったらしい。他の棟には人の気配が無かった。錆びてドアが朽ち、部屋の中に蔦植物が蔓延る場所もある。
マンションの出入り口の前に、大きな軍用バスが止まって居た。運転席に居る若い軍人が声をかけてきた。
「…アブラハム・フェレルさんとナオミ・フェレルさんですね?」
僕とナオミが頷くと、バスの扉が開いた。
「急いでお乗り下さい。ここいらでは近頃、野生動物による襲撃で少なからず人死にが出て居ます。出来るだけ早く此処を離れますよ」
僕とナオミがバスに乗り込むと、バスの扉は自動で閉まる。バスの中には僕達の他にも数名の乗客が居た。
バスは、朽ちかけたマンションを尻目に走り出した。
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居住区に着き、出入り口で書類の手続きを済ますと、僕の名前を確認した事務官が「少しお待ち下さいよ」と断りを入れた後、書類の束をガサガサと探し出した。そして一枚の書類を手に取ると、何処か安心したような顔をして微笑んだ。
「アブラハム・フェレルさん。ナオミ・フェレルさん。おふたりの新しい住まいですが、他の皆さんとは別の区画になります。Bの35番の区画に向かって下さい。道順は歩道に塗装がありますのでそれに従っていただければ迷う事は無いかと。…実は、おふたりをこの居住区でお待ちの方がいらっしゃいます」
(僕達を待つ人って誰だろう…?)
心当たりが無く戸惑ったが、事務官の言葉を無碍にする訳にも行かないし、何より住む区画が予め定められているならそれに従うしかない。僕とナオミが示された区画に向かうと、前日見かけたこじんまりとした一軒家とは比べ物にならない位広い庭を持つ大きな邸宅があり、ひとりの老婦人が大きな犬を傍らに立っていた。
「…マリアおばさん?」
其処に立っていたのは、僕の父の妹に当たる人…マリア・フェレル婦人だった。随分昔に建設関連の大企業経営者と結婚し、夫が亡くなってからはひとり暮らしだったと記憶している。年に数度メールのやり取りはしていたが、それ以上の行き来は長らく途絶えていた。
「良かったわ、アブラハム、ナオミさん。あなた方だけでも生きていてくれて」
マリアおばさんは涙ぐんでいた。
邸宅に入り、着替えた僕とナオミは、マリアおばさんが淹れてくれた紅茶を飲みながら、何故マリアおばさんが僕達を待っていたか話してくれた。
何でもこの居住区は、マリアおばさんが土地の所有権を保持していた場所に暫定政府軍が建設を打診したのだそうだ。マリアおばさんはその条件を全面的に飲む代わりに、暫定政府軍の幹部に「私の親戚が生きてこの居住区に来たら知らせて欲しい」と頼んでいたとの事だった。マリアおばさんの住まいが大きな造りなのは地権者特権であると同時に、親戚が生きて居住区に至った時への備えでもあったようだ。
「ずっとひとり暮らしで心細く思ってたのよ。今こうしてアブラハムとナオミさんを迎える事が出来て嬉しいわ」
涙を拭いながらマリアおばさんはそう述べた。本心であるらしかった。
「今まで荒れ果てた街で大変な暮らしを強いられたでしょう。今日はおいしいものを食べてぐっすり寝て、明日からはこの居住区で安全に暮らしましょう」
マリアおばさんはそう言ってくれた。マリアおばさんの愛犬が、まるで「その通りだ」と言わんがばかりに「ワン!」と吼え、千切れんばかりに尻尾を振っている。ナオミは早くもマリアおばさんの愛犬と仲良くなった様子で、頻りにその頭を撫でている。そんな光景を見ながら飲む紅茶は、これまでの人生の中で多分一番美味かった。