【掌編】新居
「本当に宜しいのですか?」
暫定政府軍の中でも外部からの避難者受け入れを担当している部署の女性事務官は、眼鏡の端をくいと指で持ち上げながら目前の椅子に座る、日焼けした肌に豊かな髭が印象的な男性に訊ねた。
「はい。叔母の葬儀も無事に終わり、我々家族の新しい住居も整えました。残った土地は…是非、嘗ての私達のようにドームの外から避難して来る方々の為にお役立て下さい」
事務官の目の前に座る、この男性の名はアブラハム・フェレル。
現在この場所に存在している超大型の人間の居住区…通称【ドーム】の、元々の地権者…正確には地権者の甥にあたる人物である。
アブラハムの叔母…マリア・フェレルは、新生代第四紀末期にユーラシア大陸で起きた未曾有の核暴発事故【メギドの日】より以前に、アメリカ大陸有数の不動産王メディチ・トランクに嫁ぎ、夫の死後も広大な土地をひとりで守っていた。
だが【メギドの日】以来、人々は放射能汚染により侵食される土地で、怪物と化した野獣の脅威に晒されながら細々と生きざるを得なくなった。
【メギドの日】以降機能しなくなった政府に代わり、生き残った人々の上に立つ暫定政府軍により、放射能汚染の影響が比較的少ない土地に堅牢なドームを作り生き残った人々をそこに住まわす事が決まったその日。
マリアは自身が夫から受け継いだ土地がその条件に合致すると知るや、即座に暫定政府軍に土地の提供を申し出た。
暫定政府軍は謝礼として、マリアの為に譲り受けた不動産の中から他の居住エリアの何倍も広い土地を確保し、豪邸と広い庭まで用意した…それは代償を一切請求しなかったマリアへのせめてもの感謝の念であると同時に、マリアから「私の親類が生きてこのドームに辿り着いたら、共に暮らしたい」と頼まれての事だった。
アブラハムが、妻のナオミと共にこのドームに避難し、マリアの元で暮らすようになって15年が過ぎた。ナオミは3児の母となり、アブラハムは山羊や鶏を飼ってミルクや卵を商う事を生業にし、安定した暮らしを手に入れた。そして…老いたマリアはベッドの中で甥夫婦とその子供達、先に逝ってしまった愛犬の子孫である数頭の犬に囲まれて、まるで眠るように静かに83年の生涯を閉じた。
アブラハムはマリアを弔った後、屋敷の庭の一部…普段は山羊や鶏を放している草原に他のドーム居住者が住まう家とほぼ同じ間取りの新居を建て、吉日を選んで家族共々引っ越した。そして引っ越しが終わるとその足でドーム内の暫定政府軍の詰所に向かい、新居への移転が完了した事と、空き家になったマリアの邸宅を更地にした上で新たに避難者を受け入れる為の家を建てて欲しい旨を伝えた。
元々、マリアの口から暫定政府軍の然るべき部署に予めその旨は伝えられていたし、新居を建てる事も勿論暫定政府軍に許可を得ての話である。だが、女性事務官はやや不安そうであった。それも無理はない。何しろマリアの邸宅は、他の居住者が住む家の有に7倍近い間取りだったし、庭は更にその何倍も広かったからだ。
貪欲な人間なら、そっくり相続して引き続き贅沢な暮らしをしていただろう。…だが、アブラハムはそうでは無かった。
「奪い合えば足りなくなるが、譲り合えば足る…叔母も良く言ってました」
「そこまで仰るなら」
女性事務官は、アブラハムが提出した地権関連の書類に万年筆ですらすらとサインを記すと、アブラハムに静かにそれを差し戻した。
「必要な家財は運び出し、余った家具や食器は近隣の皆さんにお譲りしました。屋敷はもぬけの殻です。明日にでも屋敷は解体して下さって大丈夫です」
「かしこまりました。本日はご足労いただき、ありがとうございます」
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アブラハムが帰宅すると、妻のナオミが出迎えた。
「おかえりなさい、あなた」
「ただいま」
「手続きの方はどうだった?」
「概ねスムーズに行ったよ。近い内に新しい家の建設が開始されるだろう」
そんな会話の合間、過日生まれたばかりの仔山羊が、かわいらしい声で鳴きながら足元に寄って来て体をアブラハムのズボンに擦りつけた。
「叔母様…喜んでるかしら」
「ああ、きっと今頃天国で、トランクさんと再会して俺達の事をニコニコしながら見てるんじゃないかな」
家の中から子供達が夕餉が出来た旨を知らせる声がする。アブラハムは仔山羊を抱きかかえた。
「済まないが先に食べててくれないか。俺はこの腕白とその仲間達を小屋に戻して来る」
「判ったわ」
ナオミはスカートを翻し母屋に向かう。アブラハムがふと夜空を見上げると、流れ星がひと筋、すうっと薄暮の空に消えた。