【掌編】心臓を喰らうもの
「…」
何処とも知れぬ空間で、男は目覚めた。
ボロボロの作業服にはどす黒い染みが幾つもついており、手には角材に釘を打ちつけた粗雑な棍棒を握っている。その棍棒には、生暖かく真っ赤な液体と頭髪と思しき体組織、そして微量の肉片がこびり着いていた。
「…おかしいな。俺は確か…」
男は何かを思い出そうとするが、何も思い出せない。軽く混乱している男の目の前に、大柄なひとりの人物が姿を見せた。
男が驚いたのはその人物の体格だけでは無い。その人物の身につけている服は、地上では何千年も前に滅びた文明で用いられていたそれであり、またその素顔を、耳と吻が長い獣を模した仮面で覆っているからだった。肌は夜のように黒く、仮面の後ろから靡く長髪は銀色をしていた。
「誰だてめぇ!」
男は叫ぶなり立ち上がり、棍棒を仮面の人物目掛けて振り降ろす。それを仮面の人物は素手で遮り、力任せに握り潰した。
「なっ…!」
「愚か者め、現世の武具が我に効くと思うてか」
低い声で仮面の人物は吐き捨て、それから後ろを振り向いて手招きした。鎖を引き摺る乾いた音と共に、冠を被った中性的な風貌の若者がふたり姿を見せる。ひとりはその手に天秤を握り、もうひとりはその手に鎖を握り締めている。そして、鎖の先端は一頭の獣の首に巻きついていた。ワニのような牙と頭と尾、カバのような体、そしてライオンのタテガミと四肢と爪を持った奇妙な獣だ。
「これより裁きを始める」
仮面の人物が重々しく宣言する、男が反論する。
「裁きだぁ!?俺はてめぇらに裁かれるような事はしてないぞ!」
「問答無用」
仮面の人物の言葉と共に、何処からか数人の若者が駆けつけて男を押さえつけた。
「離せ…!がぐっ」
大声で抗う男の口に猿轡が噛まされた。仮面の人物がずかずかと男に迫る。そして、その掌を全く迷い無しに男の左胸に突き刺した。
「っがあああ!」
猿轡越しに男が叫ぶ、同時に仮面の人物の掌の中に拳大の肉塊が乗せられて男の胸から引き抜かれた。血は一滴も出なかった。
仮面の人物の傍に若者が天秤と、真っ白い鳥の羽を携えて歩み寄る。仮面の人物は抉り取った肉塊を天秤の片方に乗せ、白い羽をもう片方に乗せた。
天秤は、肉塊を乗せられた側に大きく傾いた。
「有罪。判決・死刑」
仮面の人物が重々しく言うと、若者が鎖を引いて先程の獣を仮面の人物の傍らまで連れて来る。仮面の人物は肉塊を手に取り、獣の鼻先に近づける。
ガブリ
獣は、躊躇う事無く肉塊に齧りつき、数度咀嚼して飲み込んだ。
同時に、男の体がサラサラと砂のように崩れ始めた。
「ちょっ…待てよ…何だよこれ…俺が何をしたってんだよ!」
狼狽える男の脳裏に、ふとひとつの情景が浮かび上がった。
瓦礫が連なる荒廃した都市の一角。
【コンビニエンスストア】と手書きで書かれた露店らしき店に男は近づく。
倉庫と思しき空間にひとりの若者が寝ている。露店の主である。
男は、その若者の脳天に棍棒を振り降ろした。
何度も、何度も。
若者が息も絶え絶えになった様子を見て、男は吐き捨てた。
「ケッ!何だよ。こんな時代に露店商売なんか気取りやがって。気持ち悪りぃ」
そうして男は【店内】の物資から幾つかの品を盗み取り、露店を後にした。
「汝、盗むべからず。汝、隣人を殺すべからず。人間が人間らしく暮らす為の誓いを破りし者は地獄へも天国へも踏み入る事能わず、永遠にその魂は消滅しよう。…久々に喰らう罪人の心臓は美味かったか、アーマーン」
「グルルルル」
アーマーンと呼ばれた獣が満足気に低く喉を鳴らすのと、男の肉体が散り散りになって霧散消滅したのは、ほぼ同時だった。
仮面の人物は、先程まで男が居た場所を睨み、ぽつりと呟いた。
「地上の人間は己が罪の代償に、日に日にその数を減らしている。アーマーンよ、後何度そなたに罪人の心臓を喰わせる事が出来ような」
「グルルルル」
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