
土左衛門と海の幸
【高野聖】等の怪奇小説で知られる文豪・泉鏡花先生は、無類の潔癖症だったと伝えられている。旅には必ず煮沸消毒用に小さな鉄瓶とランプを携帯し、生モノは一切口に入れず何でも良く火を通してから食べ、大好物だった豆腐も【豆府】と表記する程の念の入りようだったそうだ。
中でも鏡花先生が忌み嫌ったのは海産物で、劇画【神秘家列伝】で水木しげる翁が記したところによると「塩引き鮭以外の海産物は口に入れようとしなかった」と言うから相当なものである。取り分け鏡花先生が嫌ったのは甲殻類や頭足類の仲間で、特にエビは家人にも禁ずる程の嫌いようだったようだ。その理由が「エビは自然界に於いては【分解者】であるから、生きている間に水死体に群がっていた可能性があり、従って酷く穢れているから食べてはならない」と言うものだったらしい。
種類にも依るが、死魚やクジラの屍骸に集まるエビは確かに少なくない。が、現代食用として人気が高いエビがこうした【分解者】に含まれるかどうかについては浅学にしてワタクシは良く知らない(海藻しか食べないエビやプランクトンしか食べないエビも居るのである)。
然し、そもそも大抵の人々は食膳に並んだエビが生前【分解者】であった事などまるで頓着していないのでは無かろうか。自然界に於いて一部のエビが【分解者】であり、屍に集まるのを知っているのは、余程学があるか、さもなくば余程物好きかのいずれかであろうと思われる(因みにワタクシは後者を自認している)。
流石は鏡花先生、文豪だけあって自然関係の知識も豊富と言う事なのだろう。
近頃、少なくとも日本近海では船の大規模な転覆事故は稀なものになった。更に救難活動の精度も上がっており、昭和時代以前に比べ海中に投げ出された人々の生存率も向上している。
逆に言うとワタクシが生まれた昭和時代は、令和の現代に比べ遥かに深刻な海難が多かった。その事件の多くは今なお石碑等に刻まれて伝えられ、海が持つ荒々しい側面を遍く人々に知らしめている。
北海道函館市生まれのワタクシとしては、昭和時代の大きな海難事故と言えば【洞爺丸事故】を避けて語る事は出来ない。津軽海峡を函館に向けて進んでいた大型客船・洞爺丸が、洋上で台風に巻き込まれ沈没した事故である。Wikipediaの個別項目にはこうある。
洞爺丸事故(とうやまるじこ)は、1954年(昭和29年)9月26日に青函航路で台風第15号(洞爺丸台風)により起こった、日本国有鉄道(国鉄)の青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故である。死者・行方不明者あわせて1155人に及ぶ、日本海難史上最悪の事故となった。
ワタクシが函館を離れる前、最後に住まっていた在所には洞爺丸事故の犠牲者を祀る慰霊碑が海を臨んで建っていた。夏には海水浴場として賑わう白い砂浜を睨むかのように、静かにその威容を示す慰霊碑は、どんな日でも何処か近寄りがたい荘厳な雰囲気を漂わせていた。
その、洞爺丸事故があってから暫くの間、函館ではツブガイ(腹足綱・エゾバイ科のエゾボラ属及びエゾバイ属に属する巻貝の総称。食用になる)の値が大幅に下がった事がある…とワタクシは父やその仕事仲間にしばしば聞かされた。
ツブガイと呼ばれる貝は総じて肉食性である。そして肉であれば生き死にの別に関わらずワラワラ集まる性質があるのだそうだ。
…ワタクシはその先の展開が粗方予想出来てしまって、続きを聞くのがとても嫌だったが、父や仕事仲間のおっちゃん達の話はいつも同じ結びで終わるのだった。
「土左衛門があがるとよ、ビッシリついてるんだよ…ツブガイがよ。あれは土左衛門でも死んだ魚でも何でも喰うべ?洞爺丸に乗ってた客もみんな、陸にあげられた時はビッシリ(ツブガイが)たかってたの。だから、一時期は函館でも青森でも、津軽海峡を挟んだ両側の沿岸で捕れたツブガイの事を【人喰いツブ】って(呼んでいた)。みんな、大したおっかながって誰も買わなかったモンだ」
勿論、そんな話は遠い遠い過去の事である。
この記事を読んでいるあなたが近い将来、函館に旅行に出向かれて、何処かでツブガイの壺焼きを見掛けたならば、どうか安心して賞味いただきたい。