梨の馬鹿めが
ワタクシが現在身を置く千葉県・市川市は梨の名所なのだそうである。
最も市川市とひと口に言ってもその総面積は広く、同じ市川市でも地域に依っては全く梨農園が存在しなかったりするし、お隣の船橋市でも梨の栽培は盛んである(こちらは江戸時代から続く由緒あるものだそうだ)から特産品とは言い難い帰来はある。
それでも秋の初め頃になると梨の路上販売が駅前に来たり、八百屋の店頭に梨が並んだりする。
過日、大層大きな梨…掛け値無しに小振りなメロン位のサイズがあった…が見切り品として近所の八百屋の店頭に並んでいた(余談。種類にも依るが梨には果実が木に実るものとしては巨大になる種類が多く、中には犬の頭を直撃したら一発で御陀仏になりそうだ…と言う理由から【イヌゴロシ】の渾名を頂戴する種類もあるとか。流石に今は死語のようだが…)。
価格を見たら、ふたつ入り150円(税抜)。
傷んだ箇所を削いだ不格好な姿だったが、買って皮を剝いて食べたらその甘さと瑞々しさはそれだけで気持ちが明るくなるような気がした。
翌日も立ち寄ったら、同じような梨があったのでまた購入した。そして今、買った梨を食べ終えてこの一文を書いている。
一般に【桃栗三年柿八年、梨の馬鹿めが十八年】と言われるように、梨の栽培は非常に手間と時間が掛かるものとされている。
先ず、種が極端に乾燥に弱い。
成長の遅さ、発芽から実生までに要する時間は先述の通り。
加えて梨は成長すると樹高10メートルに達する事も珍しくは無い為、台風対策として樹高のコントロールが必要なのだそうである。
そう言えば我が母校…北海道南部唯一の農業高校とだけ記せば勘の良い方は直ぐに何処かお判りになるだろうか…には梨農園があった。植えてある梨は確か【ヤーリー】(鴨梨)と言う種類の中国系の梨では無かったかと記憶している。この梨は授業で生徒が世話をするのみならず、学園祭では収穫された梨が人気の商品のひとつでもあった。
今も梨農園は母校にあるのか…それを知る術は残念ながら無い。
さて、話を市川の梨に戻す。
本八幡の某所に、梨のシーズンになると梨の露天販売を行う場所があった。植木が青々と茂り、庭にはニワトリやシチメンチョウが飼われていた。
ある日、ワタクシは外出帰りに何の気無しにその場所に立ち寄り、梨を購入したい旨をそこの主人に告げた。すると主人はワタクシの顔をジロリと胡散臭げに睨みつけ、それから野良犬か何かでも追い払うように穢らわしげに手を振って、
「ウチの梨は観光客やお大尽にしか売らない由緒正しき梨だ。お前みたいな貧乏人に売る梨は無い。帰れ」
と宣った。
嗚呼そうですか、とワタクシがその場を立ち去りかけた、その背中に向かって主人が更に追い打ちをかけた。
「貧乏人の癖に梨が食べたいだなんて身の程知らずが。お前みたいな貧乏人は、スーパーマーケットの見切り品の腐りかけた梨でも買って食べてれば良いんだ」
予め断って置くと、別にその時ワタクシは貧乏臭い服装はしていなかった。何なら外出した帰りだったので普通に他所行きの服装だった。
何を根拠に梨売り場の主人がワタクシを口汚く貧乏人呼ばわりしたのか、最早真相は闇の中だ。
市川の梨を見る度に蘇る苦い思い出である。
そんな出来事から何年も過ぎたある日、諸用の帰りに久々にその梨売り場の前を通りすがる機会があった。
建物だけはかろうじて残っていたが、もう長い事人が居た痕跡は無く、庭は荒れ放題で植木や草は茶色く枯れ、完全に廃墟と化していた。
観光客やお大尽相手に梨を売って稼いでいたにしては余りにも無惨な末路に、ワタクシは言葉も出ずに廃墟と化した梨売り場を眺める事しか出来なかった。
あの傲慢な梨売り場の主人は、果たしてどうなったのだろう。
附記
今年に入って再びこの寂れた梨農園の跡地を見る機会があった。跡地は綺麗に整地され、駐車場と化しており、最早昔日の面影は微塵も残っていなかった。
あの梨農園の主人に罵倒されてかれこれ20年は過ぎたろうか。今頃あの梨農園の主人はとうに墓の土かも知れない。だのに、あの梨農園の主人の憎々しげな顔と罵倒は未だに記憶からは消える事がない。