【小説】天狗の提灯【ついなちゃん二次創作】
此処は、紀州・葛城山の山中。
そよそよと流れる川の傍に、和洋折衷な戦装束を身にまとい、四つの目が光る鬼神面を頭に抱いた少女が矛の石突を川面に向けて構えて立っていた。その長い髪は真珠色に輝き、瞳は琥珀色で、肌は雪のように白い。
暫しの沈黙の後、ほんの僅か、川面で何かが動く気配がした。
「たあっ!」
短い少女の叫びと共に矛の柄が川面を貫く。同時に、尺に余る大きさの見事な山女魚が高く跳ねた。少女の手が、間髪入れず山女魚を鷲掴みにする。
「一丁上がり!」
少女…辟邪の神格のひとり、方相氏・追儺は歓声をあげると、捕まえた山女魚を岸辺の叢に無造作に置いた。既に同じ目方の山女魚が四〜五匹、同じ場所で横たわっている。
「此方の仕度も出来たぞ、御主人」
岸から離れた崖の方から若い男の声がする。追儺が振り向くと、黒い忍び装束に身を固めた、背丈七尺はある赤い髪の美丈夫が、俄作りの岩屋に手をかけて白い歯を見せて笑っていた。高さ一丈(約3メートル)はある大きく平たい岩を2枚土の崖に打ち込み、太さ四寸(一寸は約3センチメートル)程の桧の丸太を幾つも上に乗せて屋根としている。桧の丸太の隙間には苔を厚く詰めてある。あれなら雨が降っても雨漏りがする気遣いはあるまい。
「気張ったなぁ、前鬼」
追儺は、俄作りの岩屋に視線を向けて目を丸くした。岩屋を作った張本人…追儺の式神が一体・前鬼は、身につけた忍び装束の埃を払い、懐から手拭いを取り出して額の汗を拭うと、追儺の足元に横たわる【釣果】に視線を落とした。
「御主人も気張ったな」
「前鬼と後鬼の分も確保せなならん、嫌でも気張らな間に合わんわ」
「戻ったわ。ただいま」
そんな会話の合間、岩屋の後ろの森から姿を見せたのは、白い忍び装束に身を固めた青い豊かな髪と豊満な肉体を持った色白な美女。
前鬼の妻で追儺の式神のもう一体・後鬼である。
後鬼が手にした笊の中には、芹や桑の実等の山の恵みが詰まっていた。後鬼が森に分け入り、手ずから集めたものだ。後鬼は追儺が捕まえた山女魚に目を移すと、懐から小刀を取り出した。
「丁度良いわ。芹を山女魚のお腹に詰めて焼くと身に芹の香りが移って、ただ焼くより味が良くなるのよ」
「ほう?」
前鬼が感心する。後鬼は、早くも山女魚の腹を小刀で裂き、はらわたを取り出して川の水で良く洗い始めた。
「御主人、手伝って貰っても良いかしら」
「何をすれば良えんや?」
「芹を洗って根っこの部分を取り除いて欲しいの。あ、根っこは捨てないでね?芹の根っこは、きんぴらにするとおいしいのよ」
「判った」
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そもそも、追儺と前鬼・後鬼の夫婦が紀州は葛城山に山籠りしているのには理由がある。
前鬼と後鬼は、奈良時代辺りにこの葛城山で人間として生を受けた。然し、まつろわぬ民として迫害を受け、生きながら鬼と化した。鬼と化した前鬼と後鬼は、迫害を受けた意趣返しとばかりに暴れ回った。
それを平定したのが、修験道の開祖として知られる聖、役行者であった。
役行者の法外な霊力に屈した前鬼・後鬼夫婦は、その霊力の強さに感服し、そのまま役行者の弟子となった。
そうして役行者の薫陶を受けた前鬼・後鬼夫婦だったが、別離の時が訪れた。役行者が、衆生を救う為に生きながら仏になるべく、異界・金剛神界に旅立ったからである。旅立ちの日、役行者は夫婦にこう申し渡した。
「いずれこの地上に、私の志を継ぐ者が生まれ、私と同じように破邪遍歴を行うだろう。その時が来たら、お前達はその者の助けを為すのだ。…たまには葛城山に戻って来い。私は、金剛神界からいつでもお前達を見守っている」
そして時代は流れ、平安の世。
京の都は鞍馬の地に、役行者の意志を継ぐ者が誕生した。
剣豪・鬼一法眼である。
前鬼・後鬼夫婦は鬼一法眼を訪ね、仔細を話し、弟子入りを志願した。鬼一法眼はその願いを快く引き受けた。
以来、前鬼・後鬼夫婦は鬼一法眼がヒトの身を脱して神格となった今も、変わらず鬼一法眼をあがめ尊敬している。
…最近、鬼一法眼の子孫である追儺が新たに神格となった事で、前鬼・後鬼夫婦は追儺の式神と言う事になったのだが。
若き神格・追儺を、前鬼・後鬼夫婦は自分の妹か娘のように面倒を見てくれる。とは言えべったり甘やかしている訳では無く、厳しく教え諭す必要があれば相応の対応をする。
今日の葛城山入りは、追儺が鬼一法眼に「腕が鈍るとアカンから、たまには山籠りして体を動かしたい」と主張して実現に至ったものだ。前鬼と後鬼は言わば追儺の鍛錬の相手として共に葛城山入りしたと言う訳である。
…同時に、追儺の修行の地に葛城山が選ばれたのは、前鬼と後鬼にたまには里帰りさせてやろうと言う鬼一法眼なりの心遣いでもあった。
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夜の帳が降りた岩屋の前では、追儺と前鬼・後鬼が夕食を囲んでいた。
芹の葉を腹に詰めて串を打ち焼いた山女魚、芹の根のきんぴら、天から持ち込んで竹筒で炊いた米の飯に、桑の実を煎じた茶が並ぶ。
「美味いなぁ」
山女魚の串焼きにかぶりついた追儺が笑顔になった。前鬼は頭も中骨も残さぬ勢いで山女魚の串焼きをモリモリ平らげる。後鬼はそんなふたりを見つめ、嬉しそうに微笑む。
チョーン
虚空から拍子木を打つ音がした。
同時に、千古の古木が並ぶ森のあちこちに、赤い灯がぽう、ぽうと点った。
「妖怪!?」
追儺が矛に手をかけ身構える。然し、前鬼と後鬼は意外にも落ち着いていた。
「御主人、あれは【天狗の提灯】と言うものじゃ」
前鬼が力強く言い、後鬼が続く。
「おおかた、葛城山の何処かに住まう天狗が、私達の様子を見に来たのね。此方が悪さをしなければ向こうも障りは為さないから、心配は要らないわ」
そう言われて追儺が矛を置くと、天狗の提灯と呼ばれる灯はゆらり、ゆらりと森を照らし始めた。確かに何かを仕掛けて来る様子は無い。寧ろその灯は、明日以降山籠りして修行に打ち込む三人を暖かく見守っているようにも見えた。
「…明日から、修行頑張らないと。あの天狗はんも見守ってくれてる事やしね」
一度、前鬼と後鬼の顔を見てそう言ってから、追儺は再び視線を天狗の提灯に向けた。天狗の提灯は飽くまでも穏やかに、夜の森をほんのり照らし続けていた。