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マルーン色の阪急電車
関西圏に住んでいると、「阪急マルーン」ともいわれ、上品なイメージの阪急電車はちょっと特別な存在です。
内装は温かみのある木目調で、シートはゴールデンオリーブ色のアンゴラヤギの毛を使い、車内に高級感を広げている。何ともぜいたくなつくりだ。
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住んでいるところを尋ねたら、普通は「〇〇市です」とか「〇〇町です」とか自治体名や地名を答える。しかし、阪急沿線に住んでいる人は、「西宮北口駅の近くです。」と最寄りの駅名を答えることが多い。
しかし、阪急が100年前からずっとスマートだったのかというと決してそうではない。
阪急電鉄の歴史は、1910年に開業した箕面有馬電気軌道(現在の阪急宝塚線)にさかのぼる。今でこそ、京阪神の都市間を結び、閑静な住宅地を走っているが、もともとは紅葉狩りで有名な箕面大滝と、宝塚温泉を結ぶ行楽客を運ぶための郊外電車だった。
沿線は一面の田んぼと畑で、開業当初は乗客が少ない1両編成の電車が頼りなげに走っていたため、「ミミズしか乗客がいないミミズ電車」と陰口をたたかれた。いつつぶれてもおかしくない電鉄会社を救ったのは、創業者で稀代の企業経営者といわる小林一三(松岡修造の曽祖父)の才覚だった。
「乗客がおらんのやったら乗客をつくったらええのや」と沿線に大型住宅地を次々とつくっていった。日本初の月賦販売で、現役のサラリーマンでも郊外住宅が買える仕組みをつくり出すと、沿線の住宅が飛ぶように売れた。
当時は珍しかった動物園を箕面公園につくり、宝塚で少女歌劇団の公演を始め、豊中運動場に全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)を誘致するなど、レジャー施設やイベントで乗客を増やしていった。
しかし、いくら沿線開発を進めても、郊外電車のままではしょせん限界がある。都市間路線による大量輸送を手掛けなければ、安定した経営は望めなかった。大阪ー神戸間に路線を持つのは箕面有馬電気軌道の悲願となった。
大阪ー神戸間には既に阪神と官鉄が路線を持っていた。北の六甲連山、南の大阪湾にはさまれた細長く狭い地形で、阪神とJRが背中を合わせるように並行して走っていた。
長距離輸送を担い、駅と駅の間の距離が長いJRはまだしも、阪神は主な集落をつなぐように路線を敷いて既に営業運転していた。そこへ新たな路線を設けることは、競合というような生やさしいものではなく、正面からけんかを売る殴り込みにほかならなかった。
それでも箕面有馬電気軌道は社運をかけて神戸線を建設し、1920年に開業した社名は阪神急行電鉄と改めた。あえて"急行”という文字を書き加えて、「スピードと快適性」で阪神と勝負しようと決意した。
ここから、阪急が阪神の全面対決が始まったのである。