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コロナ禍中に読んだジャズ関連本

コロナ禍中に読んだジャズ関連本をいくつか紹介します。元々は1年ぐらい前に書いてほったらかしにしてた文章なんだけど、今日、Googleドライブを漁ってたら出て来たので、コッチに載せることにしました。あんま読み直して無いんで古かったり変なとこもあるかも。ヒドイのあったら修正します。

先ずは子どもが学校に行けず、休日は僕も自宅待機に付き合って引きこもってた頃、練習出来る様になるまでに気分を盛り上げておこうと思い、暫く持ち歩いていたジミー・ヒースの自叙伝から。


〇『Iw Walked With Giants』(2010年)著者:Jimmy Heath

ジミー・ヒースと、その周辺のミュージシャンのインタビューで構成されている本なのだが、洋書なので、少しずつ読んで2020年中に読み終わろうと思っていた。1946年、彼が20歳の時に地元のフィラデルフィアで結成したジミー・ヒース・ビッグバンドのメンツが、もう驚愕のビッグ・ネームぞろいなのでそれだけで大興奮である。ミルト・ジャクソンがフィリーの若いミュージシャンのたまり場となっていたヒース家に遊びに行ったときに、当時のユースカルチャーだったビ・バップ、チャーリー・パーカーのレコードをジミーの父親がかけてくれたことを感動的に回想している所までを読んで、頓挫していることを告白しておく。

(ジミー・ヒースさんは2020年1月19日はお亡くなりになりました。R.I.P)


〇『チャーリー・パーカーの技法――インプロヴィゼーションの構造分析』(2013年)著者:濱瀬元彦

新品だと6千円ぐらいするものを、ヤフオクで格安で入手できた。パーカーのアドリブ・ラインがどの様な発想に基づく物なのかを論理的に解説出来ている恐らく唯一の書物。初心者向けではないので、読むにはセカンダリー・ドミナント、トライトーン/裏コード、ぐらいまでのリハーモナイゼーションに関する知識と、ローテーション概念の理解が有った方が良いだろう。解らない所は読みながら勉強するつもりで買って、まだ半分も読んでません。用語が独特すぎるし、出てくる譜面がC譜ですぐにサックスで吹けないし、色々難しすぐるんだよ。でも、絶対読む価値が有ると思われます。下記で紹介する菊地成孔の本にも、著者の楽曲分析や講義録が収録されています。

〇『すごいジャズには理由(ワケ)がある──音楽学者とジャズ・ピアニストの対話』(2014年)著者:岡田暁生、 フィリップ・ストレンジ(共著)

著者の一人フィリップ・ストレンジさんは日米を股にかけて40年の活動歴があるジャズピアニストで、教育者としても旺盛な活動をしている人物だ。クラシックの素養もあり、無名だが素晴らしいキャリアと実績をお持ちの方である(「Phillip Strange」で検索すると色々出てくる)。岡田さんは彼のお弟子さんで本業は大学の先生なのだが、彼の素晴らしさを一般にも知らしめたいとこの本の企画を立ち上げたらしい。

彼の修業時代のエピソードや、レジェンド達と付き合う中でのエピソードも面白く、ミュージシャン同士の競争が如何に激烈で、だからこそこの素晴らしい音楽が生まれたのだとわかる。マイルスの鬼畜ネタも意外性は全くないが、しかしマイルス・バンドのビル・エヴァンスは本当にかわいそうなのだった。音楽的な解説も実際に譜例を使用した解りやすく理にかなったもので、youtubeにはこの本に即した解説動画も置いてある。そして何より、偉大な先人の音楽を理解し、自分たちもそれに倣って、しかも新しい音楽を表現したいという著者達の姿勢に、ジャズに対する深い愛情を感じるのである。

パーカーを分析した章もあり、大変に興味深かった。「同じフレーズを、同じところで、何度使用しても構わない」と思っている僕とはジャズについての考え方は違うが、文句なしに興味深く面白い内容である。


〇『憂鬱と官能を教えた学校 【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史』(2004年)

〇『東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編』(2005年)『同・キーワード編』(2006年)

〇『M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究』(2008年)


以上、菊地成孔, 大谷能生 (共著)による3部作。

僕は音楽理論をジャズ雑誌の記事の断片や師匠、友人たちからの示唆から学んだ。系統だった理論書等にあたったわけではなく、また、実際に出来る事ややりたい事以上の理論を学んでも無意味だと思っていた。僕がモード理論を学んでも、使用する見込みはない。が、実際に学んでみないと本当のところは分からないではないか?というわけで、誰かが何処かで薦めていた『憂鬱と官能を教えた学校』から読み始め、結局3部作全てに目を通すこととなった。

著者はちょうど僕の10歳年上の新人類世代である。この世代ぽい話だが、各書籍ともやり過ぎなぐらいに現代思想用語を駆使して解説している。ラカンやらソシュールやらデリダやらヤコブソンやら、そんなのあったなあ。最早、構造主義的知見は「ジャズは進化する音楽云々」の様な安直なロマンチシズムに陥らず、適切に歴史を記述するには必須だと思われる。昔のジャズ雑誌とか、出鱈目ばっか書いてあったもんな。

実際に某大学で行われた講義録であり、書きおこし本の常として厚さの割りに内容を薄く感じる可能性もあるだろう。コレはしばしば行われる脱線の為でもあり、重要な部分を何度も繰り返している為でもある。どちらにしろ悪くない。著者のスキゾキッズ気取りが鼻につくところもあるが、とても楽しく読めた。

『憂鬱と官能を教えた学校』はバークリー理論の簡易的な解説書だが、音楽的素養に乏しい学生の為に解りやすく順を追って解説されており、セカンダリー・ドミナントまでならこの本にあたるのが最善と思われる。僕にとっても3種類のマイナースケールにおけるダイアトニック・コードの話などなるほどと思わされた。モードも簡単ではあるが解説されており、今まで読んだモノの中では最も腑に落ちるものであった。

僕の見立てではビ・バップはモダニズムの塊だったスウィング・ジャズに替わって、スウィングが依拠していたモダンな秩序構造を破壊し、極めて非モダンなセッションという円環的時空の中から立ち現れたポスト・モダンな存在である。しかし著者によるとそうではない。ビ・バップはバッハに端を発するドミナント・モーションの推進力を利用し、楽曲のコードを細分化していった。そのドミナント・モーションこそが、直線的時間概念に基づく前進への欲望、眼前のモノを細分化/分析し、世界秩序の中に取り込もうという欲望の現れ、すなわちモダニズムであるとみなし、そのアンチとして発明されたのがマイルス的モードであったいう。なるほど。確かにビ・バップの前衛主義、分析主義傾向、高速化・複雑化への欲望はモダニズム的である気がする。

モダンジャズの歴史を解説する(面白い!)『東京大学のアルバート・アイラー』の『歴史編』に於いても上記の様な筆者の主張は繰り返される。しかし、ビ・バップ以前、スウィング・ジャズの「プレ・モダン」についての描写が、プレ・モダンどころかどうにも極めてモダンなモノにしか思われず、いささか困惑である。どう読んでもスウィング・ジャズこそがモダニズムを象徴している様な気がするのだが?その上「こないだ読んだ本には「バップでジャズのモダンが終わった」と書いてありました。ケケケッ!」とか言ってて、幻惑される。

歴史上ビ・バップがモダニズムを象徴する音楽としてもてはやされたのはわかるし、『アメリカ音楽史』(著者:大和田俊之、必読!)にも同様の記述が有ったから、割と一般的な認識なのだろう。しかし、だからと言ってビ・バップが実際にモダンであったかどうかは別の話だ。

僕の見立てはビ・バップが「モダン」を称した瞬間には、ジャズのポスト・モダン化はほぼ完成していた、というものである。ドミナント・モーションというモダニズムをテコにしてポスト・モダン化を成し遂げた、と言っても良い。なので、マイルスが「ビ・バップにドミナント・モーションとして残存していたモダニズムをモード奏法を確立することで払拭した」と言うのなら理解できる。となれば、ジャズのモダニズムを破壊したのはビ・バップであったのかモードであったのかという議論は、僕がパーカーが好きで著者がマイルスのファンである、という話に還元できる気がしないでもない。

が、しかしである。ビ・バップは「管楽器のメロディの様な単旋律でハーモニーを表現しつつ、さらにソレを打楽器の様に使用してリズムを刻み、音楽をスウィングさせるための技術」であり、ジャズのハーモニーとグルーブに対するイニシアチブがリズム隊からソリストに移動するという「ジャズ内での革命」であった。対して、マイルス的モード理論を使用している音楽の中で、ジャズは単なる一ジャンルでしかない。そしてそれは音楽を推進する力をソリストからリズム隊へと回帰させるものであり、楽器別役割分業の復活:合理主義/モダニズムへの回帰でもあったのではないだろうか。

モードはビ・バップと融合し(新主流派)、ロックやファンクと融合し(フュージョン)、MIDIと融合し(テクノ)、サンプリング技術とラップとも融合した(ヒップ・ホップ)。ドミナント・モーションの推進力を放棄したモードは、単体では商業音楽のベースとしては弱いのである。ビ・バップのドラマーはソリストの一員であり極論リズムキーパーで良いが、モードのドラマーはグルーブメーカーでないと眠い音楽しか作れない。モードはジャズとって余計なモノであるという事は、モードを使用して最も売れる音楽を作ったのはテクノとヒップ・ホップであり、最初に演奏したのがジャズマンだったのは偶々に過ぎない、という結果が証明してしている様に思われる気がしないでもありませぬ。

『キーワード編』は『憂鬱と官能』の復習の体で始まるが、まずブルースを深堀りするところから始まるのが良い。ブルーノート・ペンタの構成音が4度インターバルで出来てるとか、ミステリアスでグッと来てしまう。ブルースに頻出する「IV-I」の様にドミナント・モーションしない進行が実はビ・バップではクソ重要らしい(学術的過ぎて良く解らんが)。ダンスの章もホント面白い。パーカーが生まれ育った禁酒法時代のカンザス・シティで、ベイシーの客がどの様にブルースで踊っていたのか、バンド間の競争が如何に激しかったかとか、とにかくアツい。さすがプレスとバードを産んだ街なワケよ。「…ジャズとは…黒人音楽を巡る…いささかノスタルジックなファンタジーである」とかいきなりヒートアップである。マジでテクノを聴かなきゃいかん気になる。

他にもモードは実は音階じゃなくてsus4だとか、もうなんだか良く解りません。ホント面白いんで1冊だけ読むならこれがお薦め。下方倍音列とか、耳からも実は音が出ている(耳音響放射)とか、しかもそれがブルースと深い係わりがあるっぽいとか?最新の科学的知見がほとんどSFでたまらない感じ。

『M/D 』はマイルスの生涯を幼少期から晩年まで時系列に並べ、分析を試みた本。アカデミックなソロ分析や服飾「モード」の分析、関係者インタビューなど盛りだくさんな内容。いつの時代のマイルスが好きかで、この本のどの部分が最も楽しめるかが決まるだろう。僕は、前半の特にパーカーが生きていた時代の話は大変に興味深く、面白く読んだ。

講義録ながらかなりの濃ゆさだが、著者の多岐にわたる教養に基づく、スノッブなまでに多彩な概念をちりばめた語り口は(絶対わざとだろう)、相変わらずダメな人にはダメ、というかチンプンカンプンだと思われる。逆に内容が薄いと感じる人もいるかもしれない。

帝王化する前のマイルスは凡百のバッパーの一人に過ぎなかったと思うし、50年代に死んでいたら「ソロはイマイチだけどコンセプト勝負で当時は人気があった」ぐらいの評価で定着しただろう。でも僕はその頃のマイルスの音楽が好きなのである。今日も『Collectors Items』を聴いた。いい曲書くよな。『'Round Midnight』でまともにテーマが吹けず、イライラしたパーカーにテーマを横取りされたり、面白いんだよ。

話しを戻すと、マイルスの音楽はヒップ・ホップには合わないがテクノには合う(爆笑)とか、身も蓋もない記述もあり、だよね〜とニヤニヤする事ウケアイ。

ビ・バップとヒップ・ホップの類似性については前にも少し書いたが、当然10年以上前から判る人には判っているコトで、僕のオリジナルアイディアと思っていたのは思い上がりであった。ダズンズについての言及まであり、少し悔しく思う次第である。しかし、日本における70年前のビ・バップの受容と30年前のヒップ・ホップの受容の類似性というのはとても興味のある所なので、いつかきちんと調べたいものだ。遠くない将来、ヒップ・ホップはハイ・アートとして消費される「大人の音楽」になり、んで「ヒップ・ホップは死んだ」とか言われるようになるだろう。ジャズの様に。

中山康樹とサックスプレーヤーの著者2人との鼎談では、音楽的な話になると中山が適当な相槌しか打てなくなり、無駄な知識をひけらかして失笑されてるのも笑える。中山の「マイルスを聴いていればその他のジャズはほぼ全面的に必要ない」なんて「白人の歴史が世界史なのだ」みたいな妄言の類と等置できるクソな芸風だよな。こういう思想の元で黒人は奴隷化を強要されたのだ。こんなことを言う人物がジャズにとって有害でないわけがないのである。

また少し話しが逸れたが、例の自叙伝の(を?)サブテキストとしても大変に有用と思われる濃ゆい内容です。もちろん単品でもOK。但し、菊地氏のミソジニーがしばしば滲み出ちゃっている部分や、マイルスのDVを嬉々として語っちゃう所はホントにキモいので、閲覧には注意が必要でしょう。この人、こういう所はホントダメだよな。

各書籍とも文庫版も有り。

〇『鳥類学者のファンタジア』(2001年)著者:奥泉光

芥川賞作家の奥泉光による冒険小説。

主人公の池永希梨子はバド・パウエルに影響を受けたバップ・ピアニストという設定で、そんな彼女がついウッカリ作曲してしまったモード・ナンバーの魔力に導かれ、第二次世界大戦末期のドイツにタイムトラベルし、祖母であるところのピアニスト、霧子に出会う。で、ナチス絡みのオカルティックな陰謀に巻き込まれ、テンヤワンヤ、という話である。

僕的なポイントとしては、とにかくジャズの演奏シーンが素晴らしいという点があげられる。これは自らセッションをこなすミュージシャンではないと絶対に不可能な臨場感で、それを流石の芥川賞作家の筆力で描写されるのだから、中々の感動である。(僭越ながら)ミュージシャン目線で見ても見当違いな部分が1ミリもない、つまりホンモノである。ここまでの演奏描写は、漫画やアニメにまでジャンルを広げてもそうお目にかかれるものではない。

ストーリーはSFと言ってよい奇想天外なもので(日本SF大賞候補作である)、いささか能天気なキャラクター達が繰り広げる、ユーモアに満ちた筆致で書かれる冒険譚にぐいぐいページをめくる手が進み、やや長めの小説なのにもかかわらず一気に読み終わってしまった。一つの文を接続詞など用いずにいくらでも長く書くことが出来る日本語の特徴を利用した長尺フレーズは、ローランド・カークの循環呼吸法を彷彿とさせると言うと言い過ぎだろうか。しかしグルーブする文体である。

もちろん「鳥類学」とは「オーニソロジー」のコト。そこら辺は読んでのお楽しみってことで。かなり熱いっす。

〇『ななめの音楽 1・2』(2011年)著者:川原由美子(原案:佐藤道明)

筆者と川原由美子との出会いは、1987年に早川書房の「S-F マガジン」に掲載された短編『たったひとつの冴えたやりかた』(著者:ジェイムズ・ティプトリー・Jr.)に添えられたイラストだったと記憶している。当時僕は、竹宮惠子のイラストに惹かれて読み始めた新井素子からこの界隈にどハマりしていて、図書館でバックナンバー全漁りとかしていたのだが、マガジン誌の加藤直之や天野嘉孝などのイラスト群に混じってあった、この線の細い少女マンガタッチの絵はとても印象に残っている。今で言う萌えだった気がします。そんな川原由美子がサイバーパンクSFの名手である神林長平の表紙などを描いていた佐藤道明と組んで描いたマンガが本書である。もちろん佐藤道明がメカ担当と思われる。そして、僕にとっては当時の「S-Fマガジン」に掲載されていた加藤洋之&後藤啓介、めるへんめーかー、坂田靖子などのコミックに通ずるあの頃の匂いがしたのだった。

と言いつつ作者の作品を読むのは実は初めてである。舞台は近未来、主人公のこゆるはおそらく高校生の少女で、ひょんな事から欧州で開催されるプロペラ機レースに出場する光子先輩に同行することになる。ドイツ空軍機スピットファイアを駆る、いささかゴシックな雰囲気のお嬢様と無邪気な後輩の旅が描かれるのだが、延々と続くページを4等分した横長のコマに、比類なき画力で描かれた端麗なシーンが続く。シンプルだが緻密に計算された構図と相まって1ページがイラストの様に美しい。謎めいたセリフ、明かされない動機、透明感のある登場人物、静的なコマ割り。ほとんど実験的ですらある。メカ物であり戦闘シーンすら有るのにエンタメ感は希薄だが、代わりに夢の様な不思議な浮遊感があり、この世界観に浸れればとても楽しめる。そして最後。ほぼ女性しか登場しないこの物語が実はラブストーリーだったと知るのである。僕はかなりやられました。

因みにタイトルの「ななめの音楽」とはジャズの事。打倒ファシズムってコトで。

〇『バードは生きている―チャーリー・パーカーの栄光と苦難』(1973年/1985年)著者:ロス・ラッセル(池央耿:訳)


この本、コロナ前に読んだんだけど載っけときます。パーカーの伝記本。面白いのだが結構作者が盛っている所もあるらしく留意が必要らしい。前にも言及した、パーカーがギャングに凄んで見せる冒頭のシーンとか、ホンマかいなっつうカッコよさ。もう早く映画化とかしねえかな。

1940年代初頭の全米各地で、音楽を始めたばかりの10代の子ども達が、ラジオから、ジューク・ボックスから聴こえて来たブルースの、誰が吹いているかも判らないたった1コーラスのサックスソロに心を奪われ、その謎を解こうと必死で練習する。彼らはやがてビ・バッパーの第2世代になるんだけど、そのソロを吹いていたのが、未だ無名だったパーカーのカンザス時代の演奏とか、ちょっと感動的じゃない?

他に、個人的にはベニー・グリーン(tb)がビリー・エクスタインの立ち上げメンバーになれなかった話とか興味深い。ベニー・グリーン今聴いてるもんで。素晴らしいよ。ピアノはギルド・マホネス。

最後のほうでロス・ラッセルはスティットの悪口言ってたりするのだが、半端な知識しか無いジャズオタクがミュージシャンの悪口言ってるのを読むとイラっとするんだよな。
え〜、蛇足でした。

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