見出し画像

【リレー小説】虎に苺

(1)

フライパンの上で、泡立てた卵の白身がじゅうじゅうと音を立てている。僕は手元のヘラを使って、その柔らかな膨らみを整えながら、焼き加減を見極める。

スフレオムレツ。卵白をメレンゲ状にしてふわふわに焼き上げるこの料理は、休日の朝に密かに楽しんでいる数少ない贅沢だ。時間をかけて泡立て、焦らず火を通す。この過程が妙に心を落ち着けてくれる。

フライパンの中で、オムレツがぷくりと息をするように膨らんだ。だが、僕はそれを見て不意に焦燥感に駆られる。あまりに完璧だと、逆に不安になるのだ。何かがうまくいくときほど、裏で何かが崩れている気がしてならない。フライ返しでそっとひっくり返すと、表面は香ばしいきつね色に焼き上がり、中はまだ半熟のまま。だが、その美しさに満足する余裕はなかった。まるで外側だけ整えた薄っぺらい人生のように思えて、僕は無言で視線を逸らす。

オムレツを皿に移し、フォークを手に取った。ふわふわの食感が口の中でとろけるはずなのに、今日は妙に味気ない。目の前に広がるこの静かな朝が、何か大きな予感を孕んでいるように感じていた。いや、正確には、今日だけではない。このところ、何かに追われるような感覚が離れないのだ。


会社のノルマは年々厳しくなり、心の中の空間は狭まっていく。営業職として、数字を追いかける毎日に疲れ切った僕は、夜になると無意識に「タイマー」というスキマバイトアプリを開いている。今の生活に隙間風が吹き込むように、このアプリを使って短時間のバイトに精を出すのは、何かを埋めるための行動だったのかもしれない。

食後のコーヒーを飲み干した後、アプリに通知が届いた。「深夜に猫の捕獲をしてほしい」。いつもとは違う奇妙な内容だ。報酬は悪くない。だが、その募集文にはどこか不穏な響きがあった。それでも、気がつけば僕は参加ボタンを押していた。選択肢などなかった。何かに突き動かされるように、真夜中の街へ向かう準備を始めた。

夜の大阪。湿ったアスファルトが、ネオンの光を曖昧に反射している。僕が待ち合わせ場所に着いた時、すでに一人の若者が立っていた。パーカーを着た田村という名の大学生だ。

「Kさんですか?」

彼は軽く頭を下げた。僕は彼を一瞥して、何も言わずに頷いた。この奇妙な仕事に大学生が参加していることに違和感を覚えながらも、それを口にはしなかった。彼もまた、何かから逃げるようにここにいるのだろうか。

田村は口を開きかけたが、何かを飲み込むようにして再び黙った。僕たちは言葉少なに依頼主の到着を待った。

やがて、スーツ姿の男が現れる。彼は淡々と指示を出し、僕たちに猫の捕獲の手順を説明した。「猫は、ただ捕まえてこちらに持ってきてください。それだけです」。その声には感情の欠片もなく、冷たい風が背中を押すように僕たちを作業へと駆り立てた。

僕と田村は夜の街に散った。路地裏の暗がりを覗き込み、古びたビルの隙間を探す。しかし、猫の気配はどこにもない。まるで、僕たちが追い求めるものは影のように消え去っているかのようだった。

「本当にこれ、猫の捕獲だけなんですかね」と田村がぼそりと呟いた。

「さあな…」僕は曖昧に答えるしかなかった。このバイトが本当に何のために行われているのか、深く考えることは避けていた。考え始めると、終わりの見えない不安に飲み込まれるだけだからだ。

ふと、路地の奥で小さな光が揺れた。田村がそれを見つけ、駆け寄ろうとする。だが、その瞬間、僕は足を止めた。何かを追いかけ続ける生活は、どこかで終わらせなければならない。それが猫であれ、数字であれ、追いかけるものは常に僕の手をすり抜けていく。

田村の背中が暗闇に吸い込まれるように消えていくのを眺めながら、僕はふいに立ち止まった。何かが、このままではいけないと告げている。しかし、僕はその声に耳を傾けることができなかった。ただ、もう少し先へ進んでみよう。何も掴めないまま、僕は夜の闇に再び足を踏み入れた。

この暗闇の先に、答えがあるのかどうかは分からない。ただ、僕の心は、スフレオムレツのように空虚な膨らみを保ちながら、ゆっくりと萎んでいくのを感じていた。

いいなと思ったら応援しよう!