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【リレー小説】鴎と卵
(3)
フライパンの上で膨らみ始めたスフレオムレツが、いつものようにきつね色に焼き上がっていく。
スフレオムレツ。休日の朝に作るこの一皿は、僕にとってささやかな儀式のようなものだ。卵白をメレンゲ状に泡立て、慎重にフライパンへ流し込み、頃合いをみて火を止める。それは焦りや苛立ちを遠ざける手仕事であり、心を空白にするひとときでもある。
皿に移したオムレツを口にする。
だが、噛んだ瞬間、違和感が走った。じゃり。口の中で卵の殻が砕ける感触と音。あの独特の感触が広がった。いつ殻が入ったのだろう。卵を割った瞬間の記憶を辿るが、思い出せない。
皿を押しやり、コーヒーを一口飲んだ。温かみと苦みが心を少しだけ緩め、不快感を飲み下した。
ふと何の脈絡もなく、頭の隅に探した猫のことが浮かんだ。あの夜、暗闇に溶けた猫。あれは依頼主の元へ届いているのだろうか。それとも、あのまま今でも街のどこかを彷徨い続けているのだろうか。
机に置いてあったスマホを手に取り、指が無意識にスワイプする。スキマバイトの「タイマー」を開き、検索窓に「猫探し」と打ち込んでいた。何の気なしに検索ボタンを押すと、画面には大阪だけで50件くらいの募集が表示された。「猫探し」──それだけの猫が、この街のあちこちに。僕はその光景を頭の中で描いてみる。
暗闇とともにある都会の神社、郊外の駅前の路地裏、公園のベンチの下、古びたアパートの隙間。小さな体でひっそりと暮らし、自由気ままに街を歩き回る猫たち。地域ネコボランティアがくれる餌を悠々と食べる。冬は寒いが、風のない晴れの日は格別だ。もう彼らは誰かのタマやニャン吉、トントコである必要はない。
反面、画面に並んだ依頼文は、自分がどこかに置き去りにされたような寂寥を感じさせた。
「七年過ごした飼い猫がいなくなりました。お願いです。助けてください」「夜中に逃げたのを最後に姿が見えません。胸のところに星形の模様がある茶トラです」「うちのシンゴをどうか探してください。見つけたら連絡をください。大切な家族なんです」。
飼い主たちは失われた存在を探し続けるのだろうか。いつかは忘れてしまうのだろうか、それとも持てる時間の限り、いつまでも探し続けるのだろうか。
コーヒーを飲み干し、画面を閉じた。目の前のテーブルには、殻の交じったスフレオムレツが残っている。皿の上で冷え切ったそれを見つめた。
そしてそれを生ゴミ袋に捨てた。
袋の底でべちゃという音が、それが食べ物では無くなったことを告げた。