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【リレー小説】苺と毒矢

(2)

夜の帳が下りきらぬまま、薄墨色の空がじわりと白み始めた。街灯の光は朝の光に溶け込み、輪郭を失っていく。僕と田村は、一晩中、あの「猫」を探し続けた。古びたビルの隙間、積み上げられた段ボールの陰、ゴミ集積所の暗がり。あらゆる場所を虱潰しに探したが、猫の痕跡はどこにもない。ただ、冷たい夜風が吹き抜けるばかりだった。

「なあ、田村」
僕は重い口を開いた。
「これ、本当に猫の捕獲なのか?」

「俺もずっと気になってたんすよ」
田村は疲れた顔で答えた。
「猫って、普通の猫っすよね? なんか、妙に秘密めかしてるっつーか」

「そうなんだよ。普通の猫なら、こんなに必死になって探す必要ないだろ」

依頼内容を思い出してみる。猫を捕獲してほしい、ただそれだけ。しかし、そのシンプルな依頼の裏に、何か別の意図が隠されているように感じてならない。なぜ夜中に? なぜ猫の種類や特徴を言わない? なぜ報酬が高い? 疑問が次々と湧き上がり、思考は迷路に迷い込む。

「もしかして、猫って暗号とか?」
田村が突拍子もないことを言い出す。

「なんか、高級車の隠語で猫を使うって聞いたことあるんすよ。特定の車種のことだったりして」

「高級車?」
僕は首を傾げた。
「でも、なんでそんなものを探させるんだ? 盗難車とか?」

「かもっすね。あるいは、密輸品を積んでる車とか……」
田村は意味ありげに言った。
「そういうのを探して、見つかったら連絡しろってことだったりして」

「だとしたら、報酬が高いのも納得がいく」
僕は腕を組んだ。
「でも、リスクも高すぎるだろ。そんな危ない橋、渡れるか」

「確かに……」
田村も腕を組んで考え込む。

「でも、もし本当に高級車なら、もっと具体的な指示があるはずっすよね。『あの角を曲がったところにある、赤いフェラーリ』とか」

「そうだな……」
僕は頷いた。田村の言う通りだ。
高級車を探すなら、もっと具体的な情報が与えられるはずだ。

「スキマバイトか……」
僕はため息をついた。
「金のために、こんなことをする価値があるのか?」

「さあ……でも、今の俺には金が必要なんすよ」
田村は苦い顔をした。
「だから、この仕事を引き受けたんすけど……」

「……」
僕は再びため息をついた。金。それは、僕にとっても重要なものだ。今の生活を変えるためには、金が必要だ。
しかし、金のために危険な橋を渡るべきなのか?
その葛藤が、僕の心を揺さぶる。

「いや、待てよ」
僕は再び口を開いた。
「もし高級車だとしたら、こんな風に闇雲に探させるか? もっと効率的な方法があるだろ」

「確かに……」
田村も同意した。
「ナンバープレートから所有者を特定するとか」

「つまり、高級車っていうのも違うのか……」

再び、思考は振り出しに戻る。猫、暗号、高級車……。それぞれの仮説が、次々と否定されていく。まるで、深い霧の中を手探りで進むように、答えは見つからない。

「……何を探してるんだ、俺たちは」

思わず呟いた言葉が、虚しく空気に溶けていく。

「さあ……」
田村も首を横に振った。
「俺にもさっぱり分からんっす」

夜が白み始めた。東の空が、オレンジ色に染まっていく。時間だけが容赦なく過ぎ去り、僕たちの焦燥感は募るばかりだ。

その時、遠くから聞き慣れた足音が近づいてきた。カツカツと革靴がアスファルトを叩く音。スーツ姿の男だ。

「猫は見つかりましたか?」

男の無機質な声が響く。僕たちは顔を見合わせ、無言で首を横に振った。

「そうですか。では、報酬は発生しません」

男はそれだけ言うと、踵を返して去っていった。残されたのは、徒労感と虚無感だけだ。何も得られなかった。金も、情報も、そして猫も。

「じゃ、俺、帰りますわ」田村はため息交じりに言った。「授業あるんで」

「ああ」僕は軽く頷いた。

田村は駅の方へ歩いていく。「大学生は若いな」と心のなかで少し羨ましく思いながらも、その背中は、どこか疲れて見えた。僕も家路についた。

家に着くと、知らず知らずのうちにキッチンへ向かっていた。いつもなら、休日にはスフレオムレツを作る。冷蔵庫から卵を取り出し、無意識にフライパンに割り入れる。だが、そこでようやく、自分が何をしているのかに気が付いた。疲労困憊の体に鞭打って、何かをする気にはなれない。今はただ、何もしたくない。

フライパンの上で、泡立てられることもなく放置された卵白が、ただ虚しく光を反射している。僕はその白く濁った液体を見つめながら、手にしたヘラを握りしめる。柔らかく膨らむはずだったスフレオムレツは、形になることさえなく、ただそこにある。まるで、何も掴めなかった僕の徒労を、そのまま映し出しているかのように。

フライパンの上で、泡立てた卵の白身がじゅうじゅうと音を立てている。いや、それは幻聴だ。白身は冷たく、フライパンの上で静かに広がっているだけだ。僕は手元のヘラを使って、その白身をかき混ぜる。この一晩で、僕は一体何を失い、そして何を得たのだろうか。答えの出ない問いを抱えたまま、僕はただ、白み始めた窓の外をぼんやりと眺めていた。


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