【chapter9】青い血が流れる生き物
この世の中にはどうやら「病跡学」という不思議な学問があるらしく、国民的作家である夏目漱石にどんな精神科診断を下せるのかについて、いくつもの議論がなされてきた。
内因性うつ病、分裂病、対人恐怖症パラノイア、自己愛性パーソナリティ障害、アスペルガー障害∔HSP∔愛着障害、複雑性PTSD。
「名前のない痛みを聴く」という言葉とともに活動を始めて、3年が経った。大きく変わってしまった部分もあるし、変わらず持ち続けている部分もあるように思う。
変わってしまった部分といえば、noteの記事の多くに共感できなくなってしまったことだ。最初の頃は、HSPや繊細、という言葉を見かけると飛びつくようにフォローやスキを押していたけれど、今は何も感情が動かない。ほんとうにギリギリの精神状態なの?って思ってしまう。だってまだ君は自他の区別がついているじゃないか。自分ならざる者になっている感覚ではないでしょう?自分が壊れるのが怖いからって、中途半端にcontrolableな自分を残しちゃって、バカだなって思わないの?ダサい。
ああ、
活動を始めたきっかけは、自分と同じような思いを誰かにしてほしくないからじゃなかったっけ。40人ほどの聴衆を前に晒した醜態が、未だに記憶から消えてはくれない。「あなたはリーダーに向いてないです」という声が脳の中でずっと、ずっと、何度も、反芻している。相変わらず、自分が分からない。
言葉が全てを引き付けてしまうことをしっているからかもしれない。言葉にしてしまった時点で、蜜蜂みたいに沢山の人が集まってくる。自分が完全にその言葉が示す人柄に合致していなくても、そこに何か少しでもメリットがあるならば、自制が効かない人間はそれに、なりきろうとしてしまう。私は●●だからね、だから注目しなさいよ、助けてくれるんでしょ、って。だから、言葉を綴ることは短期的には人の共感を生んで掬いになるのだけれど、長期的に考えればそれは相手を抜け出すことの出来ない蟻地獄に陥れることと同義。
言葉にすることは、悪いことではない。数学も言葉も、もともとは神との意思疎通のための手段であったわけで。それはすなわち目に見えない存在を知るために使われていたということだ。そして神が死んで、その対象が「痛み」に成り代わったにすぎない。でも、無理に言葉にしなくていい、はぜんぜん掬いの言葉にはならない。仏教だって、あれだけ論理的なのだしさ。
どれだけ自分の痛みが苦しいものだと表現したところで、すべては二番煎じになる。相対的にみて、アメリカで行われているようなデモや運動が日本で起きると考えられないし、そこまで到達することもない。だから、言葉を綴ってだれかと全部同じになりたいだとか、全部誰とも違っていたいとかそう願うことに掬いもない。
じゃあ、私たちはどうすれば掬われるのか。
まずは、自分の「名前のない痛み」がなぜ生まれたのかを知ることだ。
そのためには、自分自身がどのようなときに苦しむのかについて掘り下げる必要がある。病名やイベント名、本のタイトルなど、自分が惹かれる言葉には何か共通点があるような気が何だかしてくる。今存在している「名前のある痛み」を研究してそれになりきれば、最低限の社会的サービスが受けられるから、自分と同じじゃない、と思う部分があったとしても、妥協しなくちゃいけない、と思ってしまう。だが、そんなことの繰り返しでは掬われないことを、知る。体感する。つまり「セルフスティグマ」の構造を知る必要がある。そこからが始まりではないのか。
そういう意味では、不登校やLGBTQなどの言葉を不必要に多用し、他人を言及する学者や運動家も、自己スティグマに同じように苦しめられているような気がしてくる。彼らは、流動的でない言葉にしがみついて、ずっと当事者であろうと(当事者にさせようと)するのだから。みな所詮は、二番煎じで、みな、誰かの真似をしているだけである。
では、「名前のない痛み」を知ったあと、どうすればいいのか。
その先を示してくれるものが、今、社会に存在していない、と私は思う。
そもそも「名前のない痛み」とはなにか。
堀田善衛の「広場の孤独」のようなものか?
生きづらさを抱えていれば、目の前にある「名前のある痛み」を都合よく使う。中沢新一だって、河合隼雄だって、ほんとうは現代思想を広めてるわけでも、ユング心理学を広めてるわけではなかった。それらを、都合よく利用していただけである。だって、その言葉が流行していたからだ、その言葉を吐くだけで、簡単に人が惹きつけられる。痛みも同じだ。HSPも不登校も、もう現代では、掬いの言葉ではなくなっている。言葉がずっと固定化されているために、いろんな知見がたまっているがために、サポート体制が整っているがために、たとえ自分がその言葉に当てはまる属性の人間ではないとしても、飛びついてしまう。弱っているときほど。
SKY-HIがこんなことを言っていた。
痛みも同じことが言えるのではないか。
例えば自分の生きづらさをある程度表現してくれている「名前のある痛み」があったとして、同じ名前のある痛みを持つ内集団のなかで社会で上手く立ち回れるオピニオンリーダーがひとりは必ず出てくる。不登校だったけど、HSPだったけど、上手く生きれてます、みたいな成功談は絶えず生まれてくるだろうし、これからも無くなることはきっとない。でも、当たり前だけれど、そのオピニオンリーダーが「こうすれば生きやすい」といったとして、それを真似すればあなたが生きやすくなるのかといえばそうではない。不登校やHSPなどのように、痛みや生きづらさに名前を付けて、オピニオンリーダーが社会的地位を得れば得るほど「そう思わなくちゃいけない」という人だけが増える。逆効果。たとえ社会的な活動をしてある程度名声があった人だとしても、自己スティグマをなくすような何らかの処置を施さなければ、ただスティグマを増長させているに過ぎない。ループ効果。
論理的で、分かりやすい言葉が書けたら人に伝わるのかと言われたらそんなことはなくて、同じクオリアを持っていなければ、どんな言葉を投げかけたところで、同じ感触で痛みを感じてもらうことはできない(もちろん論理的には理解されるだろうが)。学校で先生として授業するときも、同じことを考えている。こちらが分かりやすく説明したところで、生徒にそのクオリアを汲み取ってもらえるかは、わからない。じゃあ、同じクオリアを持ってもらうために、自分がしてきたことと同じような体験をさせたらいいのか、と言っても、その体験からその子が、私と同じクオリアを持つとは限らない。じゃあ、なにをモチベーションに授業しているの、と問いたくなるだろう。うーん、なんだろう。でも、その人のフェチみたいなものを探っているような気がする。どのタイミングでその人が、食いついてくるのか、それをずっと見極めているような気がする。それが、楽しい。というか、それを見極めるのが、生まれつき得意なのかもしれないけれど。
居場所、ってなんだったっけ。
ずっと外側に求めていたのに、自分の中にしかないのか、って思うようになって。ああこれいいじゃん、自分の求めていたものだ、って思うものに出逢えるようにはなったけれど、やっぱり期待以上のものにはなってくれなくて。人間として生きるのが少しは得意になったと思ったけれど、結局どの集団にいても居心地が悪いのは変わりがない。広場の孤独。どうせいつか離れていく他者に期待したところで、傷つくことを繰り返すだけ、でももうそんなの止めたい、自分の視点で、離れるとか傷つくとか決めたくない。離れてないじゃない、地球上にいるのなら、本気になればまた会えるでしょう?まあ、それを裏返せば、そう思わなければ埋められない孤独ということかもしれませんが。