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[Chapter4]みんな洞窟の中で太陽に照らされた自分の影だけ見てる
「名前のない痛み」ってなんだろうなって団体を立ち上げてからずっと考えていた。たくさん本を読んだけどどれもしっくりこなくて。でも「痛みを分類分けしても生きづらさは無くならないな」ってことだけは確信している。HSPだとか不登校だとかLGBTQだとか、SNSには名前を知ったことで救われたと言う人もいるみたいだけど、結局時間が経てば「なんで生きているのか」という大きな問いが自分の背後に覆い被さってきて「ああ、名前のある痛みに救いはなかったのだ」と、そう悟っていくのが定番の流れ。
なぜ痛みに名前は付けられなければいけないのか?
そもそも現代における「名前をつける」という行為は、科学と同じプロセスだ(他の学問、例えば言語学や解剖学なども関わってくるかもしれないがそれはここでは割愛する)。分離分けして名前をつけてそれを1つずつ詳細に記述する。その繰り返し。例えば細胞もそうだ。細胞の中の器官はそれぞれ独立して動いているのではなく、周りの様子を伺いながら全体のバランスを保つように動いている。でも超人でもない限りそんな動きが人間の目に見えることはない。スケッチすらできない。だから分類して名前をつけて色をつけ詳細に記述してあげる。そうすることでやっと、後世に伝達できる。
形あるものに名前がつけられることは、仕方がないことだ。
なぜか?そうしないと私たちはずっと伝達し合えないままだからだ。
言葉を発した時点で物事に名前がつく、だから言葉を発したくない、でも言葉を発さないと伝わらない、そんなジレンマがずっと頭の中をぐるぐる回っている。
プラトン「国家」の中に「洞窟の比喩」というものがあることを知っているだろうか。
みんな洞窟の中で太陽に照らされた影を真実だと思いながら、手を鎖に繋がれて後ろを振り返ることもなく前進し続けている。でも洞窟の中にいる人は、そもそも自分がどこにいるのかさえ気づけない。鎖に繋がれていることさえも。
あなたは運が良ければ、洞窟を這い出して太陽を見ることができる。あまりの嬉しさに洞窟の中にいる人たちにその真実を伝えるが、伝わることがない。なぜなら洞窟の中にいる人にとっては影が真実だから。
私はこれを、現代の生きづらさと重ねている。
みんな何かの(時代とか宗教とかなんでもいいが)思想に囚われている。悩み相談を受けていても「またそのパターンか」と思う。「○○しなきゃいけない」と思い込んで勝手に悩みを作り出して勝手に悩んでいる。だが1000年とか10000年とかそのくらいの長い目線・大きな枠組みで見れば「そんな悩みすでに誰かが悩んでいるよ」という話である。明治時代の文豪や、哲学者や詩人がすでに表現しているのだから(いまさら気にするのも馬鹿馬鹿しい)
その中で運よく物事の分類や、時代の思想からの囚われからうまく抜け出せた人が一定数いると思う(これが「洞窟の比喩」でいう「太陽を見た人」だ)。この人たちが次にどうするかというと「物事は分類しても意味がないよ」「思想に囚われすぎだよ」と過去の自分と似た苦しみを負っている人たちに伝えていくことだろう。宮台真司さんが「クズ」「言葉の自動機械」など強い言葉で発信を続けているのも、似たような部分があると思う(洞窟にいる人に「太陽を見た」と伝えるように)
でもなかなか伝わらない、そして次第に自分も自分を分類分けして何かの思想に囚われていくようになる。でもそこに何も救いのないことを悟っているから、虚しくなる。無感情になる。
私はこのような悩みを「名前のない痛み」と名付けたのだ。
「名前のない痛み」と「現代の資本主義社会」はつくづく噛み合わないなと思う。
アテンションエコノミーで溢れかえっているこの現代で、名前のない痛みは気づかれず埋もれていくのが運命なので。